私の経験談

女性医師を妻に持つ男性医師の手記 A先生

 私は3歳11カ月の長女と2歳3カ月の次女、2人の女の子の父親です。私は次女が生まれた日から1年8カ月間、育児休業をしました。私の職業は医師。麻酔科医を経て、育児休業前は救急科医として、救急外来と集中治療室で働いていました。日中の業務はもちろん当直もこなし、今後も定年するまで医師として働き続けるだろうと思っていました。

 私の妻も同じく医師で、産婦人科医。もちろん当直もあり、長女が生まれる前までは私と同じく仕事中心の生活でした。そんな私達も長女が産まれた後、妻は仕事をセーブし、長女を保育園に預けつつ、平日3日のみ病院に勤務したり、研究室に行く生活に切り替えました。私はといえば、家にいる時は家事や育児を手伝いましたが、やはり仕事中心の生活で、仕事を早く切り上げてまで育児、家事はしていませんでした。

育児休業を考えたきっかけ

 育児休業を考えたきっかけは、妻がアメリカの大学院に合格したこと、そして、妻が次女を妊娠したことでした。妻は以前からアメリカの大学院への留学希望があり、長女を妊娠中体調が悪い中も留学に向けて勉強していました。そんな妻を見ていたので、妻が留学することに全く反対はなく、当初は妻が留学中、私が仕事をセーブし、長女を日本で育てようと思っていました。ただ心配だったのは家族がバラバラに暮らすことで私達家族は今後うまくやっていけるのかということでした。そんな時に妻が次女を妊娠していることがわかりました。留学と出産、どちらも成し遂げることに私達夫婦に異論はありませんでした。残る問題は産まれたての次女と長女の世話を誰がするのかということでした。そして、私が育児休業を取り、家族みんなで渡米することを決意しました。

育児休業を決意した際の心境

 育児休業を決意した最大の理由は妻のため、家族のためでした。もちろん私自身のためにはどうかも考えました。やはり最大の心配は仕事のことでした。休業しても自分の知識や技術は維持できるか、復帰後仕事についていけるか、今後の医師人生に不利益を生じないか、そして、同僚医師からどう思われるか考えると不安でした。更に、育児・家事に関しては、英語が不自由な私がアメリカで育児・家事をすることができるのか、育児ノイローゼにならないか心配でした。そんな中でも最終的に育児休業を取ろうと思えたのは、今まで働いてきたという自信であり、その自信が仕事に関する不安を和らげてくれました。また、家事・育児に関しては、世の中のお母さん達が普通にやっていることだから私にもできるだろうと考えることにしました。

育児休業を取るにあたって

 育児休業を取るにあたって、最大に緊張した瞬間は上司、同僚に育児休業をとりたい旨を伝えた時でした。私が育児休業すれば迷惑がかかることは目に見えていましたし、育児休業することを正直理解してもらえないと思っていたからでした。朝から晩まで働き、有給も取らない医師の世界で、仕事を休むことは私自身も後ろめたいと感じていましたし、男性医師が身近で育児休業を取ったという例もなく、男性=外で仕事、女性=家事・育児を主体的にするという感覚の根強い日本社会で、医師であり、男性であり、各々の家庭で仕事中心に生活している父である上司、同僚が育児休業を取ることに理解を示してくれるか非常に不安でした。でも、その不安は予想外にも的外れでした。上司は育児休業収得に協力してくれ、同僚も私の決意を尊重してくれました。上司、同僚に育児休業希望を伝えたのが育児休業開始の8か月前でした。

育児休業の始まり

 私の育児休業は次女が産まれた日から始まりました。妻は次女出産後6日目に退院し、12日目には大学院の授業が始まるため単身で渡米しました。私と子供2人は私の実家に引っ越し、次女が約1ヶ月半になった時渡米しました。育児休業始まりの時期は今までの生活から一転、家庭中心の生活に変わり、更にアメリカでの生活も始まり、何もかもが新鮮で、ある意味楽しい時期でした。アメリカの家は広く、家のすぐ隣は湖と森で、リスが走り回っており、なんとも自然にあふれた環境でした。育児に関しては、次女の世話(おむつ交換、ミルクをあげること、沐浴)は少なからず長女の時もしていたので自然にでき、次女の日々の変化ミルクを飲む量やお通じの回数などに一喜一憂していました。また、長女は2歳前のちょうどかわいい盛りで、長女の表情やしぐさを間近で見ることができたのも楽しいことでした。長女は私にぴったりで、そこがまたかわいいのですが、困ったことにどこにでも付いてくるのでプライベートがまったくありませんでした。一番抵抗感があったのはトイレをしている時に横で見られていることでした。こうやって子供達と1日中関わっていると日に日に絆が自然と深まっていき、私が守るべきものであるという意識がさらに深まっていきました。

育児休業中の生活

 育児休業中の1日は次女にミルクをあげ、おむつを交換することに始まり、そして、終わりました。私の育児休業中の目標は(1)3食ちゃんと作る、(2)規則正しい生活を子供達にさせる、(3)部屋はきれいにする、(4)子供達といっぱい遊ぶでした。今まで夫婦共働きで満足に子供の世話をできていなかったので、一般的な家庭がしているようなことはしてあげたいという思いがありました。一番自信がなかった料理は本やインターネットを活用して作り、子供達と遊ぶ時間を十分とり、規則正しい生活をさせるために毎日同じリズムで生活するよう心がけました。ただ、実際にやってみると家事と育児を両立すること自体が大変なことであることがわかりました。子供達は私が家事をしていても集中させてくれず、私はおんぶや抱っこ、下手するとおんぶに抱っこしながら家事をしました。世の中の育児・家事を両立しているお母さん達はつくづく偉いと思いました。

育児休業中のうつ状態

 育児休業を始めて育児・家事に追われていましたが、自分の今後のことを考え、子供達が寝ている合間に英語の勉強をしたり、論文を書いたりしました。睡眠時間を削って、自分の時間を捻出しましたが、思うように勉強ははかどらず、次第にそんな状態に焦りを覚えるようになりました。育児休業を始めて4カ月頃から私は精神的に不安定な状態になってしまいました。その原因は一言でいえば自分に自信が持てなくなってしまったからでした。仕事をしていた時は医師として人のため、社会のために貢献し、家庭でも一家を養っているという自負が少なからずあり、それらがある意味自分に対する自信を生んでいたのかも知れません。しかし、休業・渡米し家で家事・育児に追われている自分をふと振り返った時、自分の社会的価値に不安を感じるようになりました。専業主夫で英語も不自由な自分には社会に貢献できるものは何もなく、勉強も思うようにはかどらないため自分が成長しているという実感もなく、自分に自信が持てなくなりました。加えて、育児本や育児ブログを読むと頑張っているはずの育児も不十分に感じられ、純粋に育児を楽しめていない自分が人間的に小さく感じられ、自信をさらに持てなくなってしまいました。また、抱っこの仕方が悪かったのと抱っこのしすぎで急性腰痛症とドゥケルバン病(腱鞘炎)になり、心身共に辛くなってしまいました。そんな私をみた妻は私が家事・育児から離れることができる時間を作るようにしてくれましたが、育児休業中のうつ状態は約5カ月続き、一月に一回落ち込んでは這い上がることを繰り返していました。

うつ状態からの解放

 そんな私にも転機が訪れました。一つは妻の大学院カラキュラムの一環として実務研修があり、2ヶ月間スイスに住んだこと、もう一つはスイスからアメリカに戻った後子供達をデイケアセンターに日中預けることになったことでした。公園に行くにも、買い物に行くにも車が必要な車社会のアメリカから日本と同じく歩いて公園にも買い物にも行くことができるスイスの環境は大変便利で、私にとって家事・育児がしやすい環境でした。更に観光地だけあって景色がきれいで外出するのも楽しく、観光客に慣れているためフランス語がしゃべれなくても人は親切で、生活する上で精神的にゆとりを持つことができました。次女を前抱っこし、長女をベビーカーに乗せ、平日日中は時にお弁当持参で公園や湖に出かけ、ダウンタウンで買い物をしました。また、休日のたびに家族でスイス国内やフランスを旅行しました。スイスからアメリカに戻った後次女はちょうど1歳になり、子供達を日中デイケアセンターに預けることにしました。子供達は最初新しい環境に戸惑い、送っていっても私や妻にしがみついていましたが、私よりずっとたくましく、いつの間にかデイケアセンターでの生活を楽しんでいました。私はと言えば、妻が大学院で勉強している姿を見て、私もいつか留学したいと思うようになり、TOFLEの勉強をすべく、日中子供達をデイケアセンターに送った後は大学付属の語学学校に通いました。宿題があったり、試験があったりで忙しくはなりましたが、短期的な目標とそれをこなしていく達成感があり、逆に精神的には落ち着きました。また、子供達を預けている間に出来るだけ家事も済ませるようにしたため、子供達にもゆとりを持って接することができるようになりました。

育児休業を終えて

 1年8カ月の育児休業は私の単身日本帰国で終わりを迎えました。私の勤務していた病院の育児休業規則では子供が1歳になった歳の年度末までしか育児休業をとれなかったため、妻の大学院卒業までアメリカにいることはできませんでした。アメリカでの生活にも慣れた子供達は妻と一緒にアメリカに残ることになりました。1年8カ月間家族といつも一緒にいた私は帰国した後想像以上に家族みんなと離れて暮らすことに寂しさを感じました。そして、帰国後11日目より救急科医として仕事に復帰しました。

最後に

 私の育児休業は楽しいことばかりではありませんでした。しかし、育児休業を終えて今言えることは育児休業をして良かったなということです。休業して医師という仕事が自分にとって生きがいであることに改めて気づき、自分の仕事が好きであることを再確認できました。また、逆に医師でない自分の社会的価値や仕事以外に興味があることは何かを見つめなおす機会にもなりました。更に子供を育てる大切さも再認識することができました。子供が頼ることができるのは親である私や妻しかいないことを実感することができましたし、子供と四六時中一緒にいることができるのも長い人生のひと時で、子供はこれからどんどん親から離れていってしまうと思うと、この時期は今しかなく、これまた長い仕事人生の1年や2年を子供中心に送ったとしても結果的には人生豊かになるのではないかと思いました。私は現在育児休業をとる前と違って、自然と家事・育児ができるようになり、正真正銘の「イクメン」になりました。

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『いろいろチャレンジの人生』 外科 B先生

 こんにちは。皆さん、今後どの道を選択しようか、家庭を持ちたいけれど、臨床経験や専門性を磨きたい、研究もやりたい、出産育児と仕事をどう両立させようか、等、考えることや悩みも尽きないと思います。
 私は、今まで何も深く考えずに過ごしてきた典型ではないかと思いますので、参考にならないかもしれませんが、ざっと今までの経験を述べさせていただきます。

 本学卒業後、学外の一般病院の外科レジデントに応募。初の女性レジデントでしたが、本人は全く意識せず、チーフレジデントまで5年間過ごし、臨床経験をつみました。その後理論的な考えも必要と感じ、母校の大学院に入学。大学院では外科学講座に所属しましたが、病棟フリーで基礎教室に派遣され、他大学にも出入りしつつ、自身で研究計画を立て、実験系を組み、実験を行っていました。他大学の医学部以外の基礎系の先生方とも交流を持つ機会も得て、生命の持つ限りない神秘を垣間見ることができました。その間も、当時開院したての一般病院で当直日勤のアルバイトをしていましたが、開腹、開胸手術を含め数多くの術者も経験できたのは、レジデント時代に臨床に打ち込んだ結果だと思います。
 大学院生活を終え病棟に復帰し、まもなく帆船日本丸の船医に応募しました。この船医のポジションは外科の中から選ばれることになっていました。この機会を逸するなんて考えられませんでした。船の世界は筆舌に尽くしがたい経験でした。この船は練習船ですので、殆ど動力を使わず、船員の総力を合わせて風の向きや力に応じて帆や舳先を動かし続けなくては目的地に達しません。自然の壮大さとチームワークの力を実感できる機会でした。
 乗船中に留学のお話をいただきました。研究者としての無給のポジションでした。知らない世界をみたいという気持と、留学すれば英語がペラペラに話せるようになるだろうという安易な思い込みから、内容も全く確認せずこのお話を即座に承諾しました。今まで親元のみで暮らしていたものの、異国での単独生活に関しては両親や私自身も全く不安や躊躇なく話が纏まり、順調に研究生活を送ることができました。
 研究室のボスは若く美しい新進気鋭のすばらしく優秀な女性外科医で、アメリカ外科学会の中でもリーダーであり、その一面で、同じ施設のご主人と当時6歳と4歳のお二人の可愛いお子さんをお持ちで、週末には必ずご自宅に呼んでくださり、家族とともに遊んだりお食事をさせていただきました。ボス以外にもたくさんのフェローやスタッフの女性外科医が普通に、家庭を持ちながら仕事をしていました。彼女たちとの出会いが私の人生観を変えたといっても過言ではありません。
 研究は意外な結果が出たということもあり、ありとあらゆる方法を経験し、他大学からの日本人研究者とも交流を持ちました。また、当時ラボにいたアメリカの医学部受験生や他のラボの大学院生、フェローたちとの交流も貴重な経験でした。現地の若者は、私に“アメリカの若者の経験をさせる”ことを使命として毎週の飲み会をはじめコンサート、プロ&カレッジフットボール&野球&バスケットボール、プロレス、ロデオなど研究の生活版のようにありとあらゆる経験をさせてくれました。また、外科のスタッフやフェローたちも私を外科医の一員として扱ってくれて、フェローのカンファレンスや抄読会に参加したり、バスケットボールを一緒にしたりホームパーティーに招待していただくなど、幸せな留学生活を送ることができました。この留学中にECFMGのライセンスを取得することができたのも、英語環境に置かれ現地に溶け込めたからだと思います。
 人生観が変わったと同時に、私の結婚も留学中に決定しました。結婚のため帰国し、結婚、すぐに長男出産。育児休暇は3ヶ月取得しましたが、出産後も当直を含め普通に外科の業務を続けました。出産後から当直のときは主人が子供の世話をしています。当直のときは搾乳して、医局の冷凍庫で凍らせ、アイスボックスで家に持って帰っていました。
 長男が9ヶ月のとき、再度同じアメリカの病院から留学の話が舞い込みました。今度は臨床のフェローの話です。全米第一のがんセンターでフェローが出来るこの機会を無駄にするなど考えられませんでした。この話を上司の先生方や同僚にしたところ、皆がこの機会を生かして欲しいと快く2度目の留学を応援してくれました。主人は近くの大学での研究職のポジションを得て、一家3人で再留学。臨床フェローは非常に忙しく緊張感も高く、ものすごいストレスでしたが、おかげで非常に多くの臨床経験やOncologyに関する考えを理解することが出来ました。
 留学から再度帰国し、第2子をもうけ、育児休暇はやはり3ヶ月いただきました。臨床は日直当直を含め、同じように行っていますが、子育てに関しては上司同僚ともに非常に理解があり協力的なので毎日有難く仕事を続けられています。復帰後の子育てには、保育園、学童保育、ファミリーサポート、シッターサービス、お手伝いさん、親、友人、病児保育、等々、何重ものサポートを必要としていますが、おかげさまで現在なんとか臨床診療を中心に、研究活動も地道ながら行っています。
 私としてはいろいろな経験をすることは回り道になるかもしれませんが、無駄になることは無い、大切なのはあきらめず、チャンスがあったらチャレンジすることではないかと思っています。

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―私の結婚・出産・復帰―とある循環器内科医の場合 循環器内科 C先生

 30歳の時、結婚しました。
 相手は音楽家で自宅でレッスンしたり、外へ演奏しに行ったりという生活。結婚後すぐに新潟の田舎の病院へ出張となったため、夫を連れて赴任。歩いて30秒の官舎に住んだので2年後に妊娠したときもあまり苦労しませんでした。

 週1回の当直も宅直だったのでそのままこなし、きりのよいところで東京へ戻って産前休暇5週目に慈恵医大で出産し、産後10週で葛飾医療センターに復職しました。この休暇の間は学位論文の準備を進めていました。育児休暇制度もありましたが医局では産休取得すら私が初めてで、育児休暇を取ろうという発想自体がありませんでした。0歳児の公立保育園が確保できたのですが、夫が「自分が子育てするから、保育園はやめよう。」と言いだし、以来家事・育児の8割は夫が負担するという極めて恵まれた状況におります。それでも途中、夫が疲れてしまい、無認可保育園を1年ほど使いました。あとはベビーシッターを適宜お願いしました。
 当直は復職後5か月はなしにしてもらって、体力的にも回復してきた頃から徐々に開始し、出産後1年目の頃は同期と同じようにやっていました。受け持ち患者の急変で夫がいなければ子供とともに夜中に出勤ということもありました。めったにはありませんからなんとかなります。また、予測がついている時には予め当直医の先生に十分お願いし、患者さんにも「あとは当直医に引き継ぎます。」と宣言していました。
 患者さんにとっては私が24時間働くことが大事なのではなく、患者さんが24時間誰かに継続して医療を受けていることが大事なのですから。
 ・・・この続きを知りたい方は女性医師キャリア支援室までご連絡下さい。

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気づけば3児の母です 外科系 D先生

 医学部時代は普通の大学生として生活をしていたように思う。運動部に所属していたお陰で体力作りができ、よき友人や先輩後輩と出会えた。スポーツの素晴らしさも経験できた。チャンスがあったらママさんスポーツでもやりたいな、と実は今でも思っているほどである。それはさておき。。。。

卒後の自分は、、幾つかの時期に分けてみた。
 1)ローテーション時代
外科、内科(循環器、呼吸器)、小児科、麻酔科で研修した。教えていただいた事や諸先生方との出会いが、今でも仕事上の貴重な財産となっている。
 2)入局したばかりの時代
右も左も分からず緊張していた。とにかく何でも一生懸命やろうと決心していた。ドップリと病院に浸かった毎日で、24時間電子音を聞くとポケベル音かと思って反応してしまっていた。一言で言うと無我夢中だった時期。
 3)結婚・第1子出産
研修5年目に結婚した。夫は同じ医局の先輩で9歳年上。ほぼ同時期に専門医を取得。結婚して1年後に第1子を妊娠した。その時期、医局で或るプロジェクトのメンバーだったので、それを出産後も継続し結果を出せるのか不安を抱えながらの妊娠生活がスタート、悪阻がひどくてひどくて当時の医局長に相談したら2ヶ月ほど休ませて頂けた。不安でいっぱいだったので本当に有難かった。その後出産まで外来勤務であったが続けさせてもらい、無事に出産した。産後は5ヶ月で復職した。夫の勤務先に院内保育施設があり利用できたので、この事も本当にラッキーだった。送迎を夫がしてくれた事も非常に助かった。
 4)第2子、第3子出産
子供一人育てながらの勤務は、慣れない育児によるストレスと、以前のように無我夢中で働けないあせりでドタバタしながらだったが、先輩、同輩、後輩、コメディカル、家族、、、、と周囲の多くの人達が寛容に接してくれていたお陰で、何とかやってこれたように思う。そうこうして子供を3人授かった。3人目の子供の出産時は36歳になっていた。第3子出産後の休職中に学位論文を執筆した。
 5)現在
妊娠−出産―休職―復職という事を3回繰返した訳であるが、この経験は私に今までとは違うものを授けてくれたように思う。送迎を含む家庭の事をするため病院にいる時間を大きく減らさなくてはならなくなった結果、得られなくなったものは沢山あるが、その代り、母としての自分というのが生まれてきた。これが結構思い通りにいかない事ばかりで、医師業務以外でも人生修行をしている状況である。でも、面白いし幸せを感じられる事がたくさんあるし、また、自省ひとしきりでもある。末っ子も現在4歳となり、だんだん子供のお世話に追われることが減ってきた。しかし、まだまだ公私ともに未熟者なので、今後は少しずつキャリアアップの時間を増やしたり、引き続き子供達のための時間もできるだけ持ちたいと思っている。仕事面、私生活面ともに周囲の皆さんにいろいろと迷惑をかけているが、寛容に見守って助けていただいており本当に感謝している(家族、職場の皆さん、保育園と小学校の先生やママさん達、有難うございます)。感謝の気持ちを忘れずにこれからも励んでいき、少しずつでも恩返しできたらいいなと日々思っている。

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30代半ばまでフルに働き結婚出産、まだまだ現在進行形 外科系 E先生

 慈恵医大を卒業後、飯田橋の病院で研修し、子供と手術が好きだったので、慈恵医大の今の医局に入局しました。
私の母は専業主婦なので、自分も結婚したら専業主婦になってもいいと考えていましたが、仕事と趣味に明け暮れていたら、いつの間にか30歳を超えていました。

 これはまずいと感じましたが、30歳半ばで結婚し、すぐに子供もできました。同業者と結婚したので、私の分も含めて医師という仕事を存分にしてもらいたいと、家のことはできる限り自分でしましたが、子供がいると家事も満足にできず、また、小さい子供と2人きり(夫は毎日帰ってくるのが遅いため)の生活で他人と会話する機会が減ってしまい、悶々とした日々を送っていました。たまたま自分の専門分野の人員不足もあり、子供が8か月の時に少しずつ仕事復帰をさせてもらうこととしました。
 仕事と子育てで、結局今までよりも忙しい生活になってしまいましたが、自分の中では家族との時間を大事に考えられようになり、よかったと思っています。 また、仕事の都合で子供のお迎えが難しい時は母の協力を得ることができるので助かっていますが、他のママ女医さんたちはベビーシッターを頼んだり、肩身の狭い思いをしながら仕事をきりあげたりと大変だと思います。
 結婚前に教育関係の仕事をいただき、途中休んでいましたが、復帰後もやらせていただくこととなり、当直や大きい手術にはいるなどのフルの仕事はできませんが、この仕事があることで日常業務だけでなく、大学で働く目的ができました。
 子供と一緒にいる時間が少ない分、子供はさみしい思いをしてかわいそうなのではと考えることもありますが、その分、将来子供に「お母さんはこんな仕事をしていたんだよ」と自慢できるような結果を残していきたいと思っています。

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様々な経験を経て1児の母&医師として進化中 外科系 F先生

【卒後から現在までの勤務状況、オペ状況】
 医大を卒業後、その分院で初期臨床研修を終え、同大学の外科系医局に入局しました。男性の先生がほとんどの医局で不安もありましたが、入局してみると皆とても面倒見がよく、レジデント期間はただひたすらに仕事に没頭していたような気がします。

また、結婚、出産後も働き輝いていらっしゃる女性の先生方が近くにいてくださったことも心強かった要因の一つです。
 レジデント1年目より1年3ヶ月は本院勤務。手術件数も膨大で、帰宅時間は毎日深夜と忙しい日々でしたが、その分諸先輩方に手術を徹底的に教えていただきました。本院にいた1年3ヶ月に経験した手術は322件、内オペレーター件数は150件と、たくさんの手術を経験させていただき本当に勉強になりました。仕事で充実していても、やはり時には息抜きも大切・・・と、週に1〜2日は仕事後に先輩方と美味しいものを食べに行ったりもし、とても充実していました。
 レジデント2年目の夏より都内の関連病院に転勤。手術に関しては既にかなりのレベルまで教わっていたので、ここでは殆どオペレーターとして手術させていただきました。(3年間で362件経験。内オペレーター296件。)日中は外来、手術と分刻みで忙しくはありましたが、帰宅が深夜になったりすることはなく、夕方からは趣味や習い事(茶道やゴルフ等)をしてみたり、友人と食事にも行ったりしました。また、論文執筆や学会発表も国内だけでなく、海外のものにも積極的に参加しました。
 現在、産後7カ月で週4日勤務の復帰をしました。とりあえずは外来のみですが、子供がまだ1歳に満たず病児保育も利用できないので、子供の病気時のリスクを考え、外来診療のみを担当しています。

【結婚(相手、出会い)】
 主人との出会いは研修医の際、関連病院に見学に行った際でした。
 元々医局の先輩ではありましたが、同じ職場に勤務したことはなく、時に医局の食事会で会う程度でしたが、海外からのドクターの接待を一緒にしたことをきっかけに距離が近づきました。主人がかなり年上であったことや、勤務、居住地が遠方だったことなどが影響してか、付き合い始めて1年後には結婚式と、かなりのスピードで事が進んでしまいました。

【出産】
 結婚式とほぼ時を同じくして妊娠が発覚しました。妊娠初期は悪阻もひどかったのですが、当時の職場の同僚は男性医師しかおらず、主人ともまだ勤務の関係で遠方に別々に住んでいたため、体調的にかなりつらかったです。
 妊娠7カ月頃より手術は制限し始めましたが、妊娠9カ月半まで働きました。妊娠後期は休む間もない外来診療でおなかが張ることも多く、切迫早産にもなりかけ、ウテメリンを飲みながら診療しました。里帰り出産予定で故郷が遠方だったため、産休に入ってすぐに帰郷したのですが、妊娠35週で常位胎盤早期剥離になってしまい、緊急帝王切開で出産しました。出血多量で入院期間も長く、産後2カ月は実家で過ごしました。

【専門医、学位】
 実は、出産年が専門医試験を受験する年でもありました。そのため、出産後2カ月で勉強を開始し、産後5カ月で専門医試験を受けました。日中は育児のため勉強は難しく、勉強は子供が寝静まってからの一日2〜3時間のみであり、ダメ元で受験しましたが、運よく合格することができました。育児をしながらの勉強はなかなか難しいとは思いますが、何よりもあきらめずに短時間ずつでも勉強する根気と家族の理解が大切だと思います。

【引越】
 出産前、主人の勤務地が東京に戻ったタイミングで同居を始めました。

【現在の保育園】
 公立保育園を応募するも落選してしまい、職場近くの私設保育所に預けています。満員電車の中での通園は大変ですが、施設も保育士さんもとても素晴らしく、感謝しています。同園児さんのお母さん方も皆さん仕事を頑張っていらっしゃる方ばかりなので、いろいろ励ましあって頑張っています。

【祖父母の協力体制】
 私の両親は遠方なので協力は難しく、土曜日勤務の際のみ、義父母の協力をお願いすることもあります。しかし、平日早朝出勤の際等は基本的にはファミリーサポート、ベビーシッターの方にお願いするようにしています。ファミリーサポート、ベビーシッターを利用する際には、やはり自宅近くの保育園が便利だと思います。

【メッセージ】
 出産後仕事復帰するにあたって、子供の保育園入園、子供や自分の体調、ご両親を含めた諸サポート、仕事のブランク等不安もたくさんあると思いますが、周りには産後も育児しながら頑張っていらっしゃる女性の先生方がたくさんいらっしゃいますので、いろいろ相談しながら、皆で頑張っていきましょう。

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やっぱり家族が自分の軸だと気付かされたアメリカ留学、仕事にも迷いがなくなった 産婦人科 G先生

・研修医・レジデント時代
 私は医学部卒後10年とちょっとになる産婦人科医です。地方の国立大学医学部を卒業後、最初の5年間はがむしゃらに働いたように思います。

 卒後1年目より相当回数の当直を行っていましたが、それに加えて自分の興味がある疾患の患者さんが夜間に救急搬送された場合は呼び出してくれるよう夜勤のNs.に頼んだり、執刀させて欲しい緊急手術が行われそうなら主治医の先生の周辺をその術式の手術書を持ってうろうろして“執刀させてほしいアピール”をしたり、随分積極的な研修医だったと思います。
 研修医2年目の時に学生時代から交際していた現在の夫(麻酔・救急・集中治療医)と結婚しましたが、私は相変わらずの仕事中心人間でした。結婚式の準備は全て夫任せ、同居後もたまに食事の準備をするくらいで、掃除・洗濯は夫の役目でした。全身管理を学びたいと思い、1年間都内の高度救命救急センターに出向していたこともあり、仕事がますます楽しく、夫の誕生日などの記念日はことごとく忘れ、ヒンシュクをかっていました。

・初めての妊娠・出産・育児
 そんな私に転機が訪れたのは卒後5年目のことでした。一通りの基本的な診療技術・手技を身に付けると、どうしても医学・医療だけでは解決できない種々の問題の存在を感じるようになり、公衆衛生を学びたいという気持ちが強くなりました。また日々患者さんの子宮や卵巣にメスを入れ、合併症妊娠の診療を行うにつれ、これ以上妊娠・出産を先送りすることのリスクを考えるようになりました。そこで妊娠・出産をする+留学をして公衆衛生を勉強するという次なる目標を立てたのです。
 葉酸の服用から事前の感染症スクリーニング・ワクチン接種まで、万全の準備を整え、幸いすみやかに妊娠したのですが、想定外だったのはあまりにひどい妊娠悪阻でした。当時分院まで電車勤務していた私は、電車をたびたび下車して、ホームで吐き、線路上に吐き、間に合わないときは車内でビニール袋に吐き、病院に着いて医局で吐き、洗面所に間に合わず床で吐き、外来で患者さんを一人診察しては吐くという状態でした。実際診療行うことが困難な状態で、翌月以降の当直を免除してもらいました。同僚から直接苦情を言われることはなかったものの、誰もが肉体的にも精神的にもギリギリの過酷な勤務を行っている状況で、私が働けなくなった分の負荷が同僚医師に重くのしかかっているのは明白でした。結局私の悪阻は出産まで治まらず、繰り返す嘔吐に、最後は誰と会っても挨拶も出来ないくらい心身共にボロボロになりながら、何とか産休まで勤務を継続しました。
 その後幸いにも無事に健康な長女を授かったのですが、これまた想定外だったのは、私がなかなか進行しない分娩と陣痛の痛みに耐えられず、途中から無痛分娩に変更してもらったことです。これは産婦人科医として上から目線で他人のお産を批評していた私にとって大きな意識改革のきっかけとなりました。以降私は陣痛の痛みに耐えている全ての妊婦さんに尊敬の念を持って接するようにしています。
 長女が生まれて数カ月は慣れない育児との格闘でした。長女は夜間、私が縦抱きして、背中をトントンしながら、窓際に立っていないと泣き叫ぶ赤ちゃんでした。夜10時から朝方4時までの6時間、毎晩毎晩窓際に木のように立ち続け、長女を抱いてトントンし続ける生活が4カ月続きました。抱っことトントンの繰り返しで肩と手首がひどく痛み、睡眠不足も加わって、ヘトヘトになりました。これまで寸暇を惜しんで勉強し、自分が成長することだけが目的だった私にとっては、ただひたすら窓際に立ち続け、赤ちゃんの着替え・おむつ替え、洗濯・掃除を繰り返す生活が、とても“自分の仕事”とは思えず、何事もなかったようにこれまでと変わらず仕事を続ける夫に当たり散らす毎日でした。今思えば私自身母親としての腰が据わっておらず、自分のことばかり考え、他人事のように育児をしていたのであり、反省しきりです。
 長女が3カ月になったころより、市中病院での非常勤勤務、大学研究室での研究を開始しました。外の世界と関わることで精神的にはやや安定したものの、今度は3カ月の長女を保育園に預けていることの罪悪感や心配な気持ちでいっぱいになり、私の頭には大きな円形脱毛がいくつも出来ました。保育園に預け始めから約1年間、長女は毎月のように熱を出し、綱渡りのように勤務を行う日が続きました。このような生活の間に、TOEFLやGREといったアメリカの公衆衛生大学院に出願するために必要な試験を受験し、願書や志望書、推薦状を準備。進学先の大学院も決まり、更には倍率約25倍の競争を勝ち抜いて奨学生(無償奨学金約800万円を受給!) として採用されたのです。出産より1年4カ月後に本院に常勤として復帰しました。この時既に私は第2子を妊娠しており、第2子を分娩してすぐに渡米する予定になっていました。

・アメリカ公衆衛生大学院留学
 第2子の分娩は非常にスムーズに進み、無事に元気な次女を授かることができました。分娩の10日後には長女(1歳8カ月)と次女(生後10日)を、2年間の育児休暇を取得してくれた夫に託し、渡米しました。アメリカでは銀行口座の開設、家具・家電の買い付けから日用品の買い出しまで、生活の立ち上げに奔走しましたが、日本に残してきた子供達のことが心配で、心が晴れる日はありませんでした。1カ月半後には夫と子供達も渡米してきたのですが、幼い長女と生まれたばかりの次女と離れていたこの時の経験が、今の私の根底をなしているように思います。この時に、子供達が自分にとってどれほど大切でかけがえのない存在なのか痛感し、自分にとって何よりも優先すべき軸は家族であると迷いなく思えるようになりました。
 アメリカでの大学院生活はとても充実したものでした。私達が住んでいたのは人口500万人を超えるアメリカ南部の大都市でしたが、むしろ広大な田舎といった風情で、家族を大切にし、家族と共に過ごすことを重視する雰囲気は、私達家族の絆も強めてくれました。家族みんなで朝食をとり、日中は大学院の講義、家事・育児で疲れきっている夫を少しでも家から開放するために極力早く帰宅して、子供の夕食・入浴の世話をし、家族みんなで就寝。翌日の予習と宿題をするために、午前3時には起床し、勉強するという毎日でした。講義は厳しくも分かりやすく、今まで疑問に思っていた疫学・統計学の基礎からアメリカおよび世界各国の保健政策、危機管理の理論と実際からダイナミックな国際保健まで、日々新しいことを学べる最高の環境でした。隣接するアメリカ疾病予防管理センター(CDC)での研究や世界保健機関(WHO)でのインターンシップを通して、このような“組織での仕事の仕方”を学ぶことも出来ました。教授陣の推薦で、成績上位かつ貢献度の高かった学生が選ばれるhonorary societyのメンバーになれたこともうれしいことでした。
 アメリカは子供を持っている女性にとって就労を続けやすい環境にあるといった評価を聞くことがありますが、少なくとも私の経験上は子供を持ちつつ仕事をしているアメリカ人女性の悩みは日本人女性のそれと変わらないと感じました。仕事をしているために子供の面倒を十分に見ることが出来ていないのではという罪悪感、子供がいるためにキャリアアップ出来ないという歯がゆさが、友人達との会話から垣間見えました。保育園の入りやすさや保育料の点でも、妊娠・出産・育児に際しての雇用保障や給与補償の点でも、アメリカが日本より子供を持つ働く女性に優しいようには思えませんでした。逆に私がアメリカやスイスでの経験から学んだ、家事と育児を両立するうえでの重要なキーは、誰がやっても同じだと感じること(自宅の掃除など)はどんどんアウトソーシング(ハウスキーパーなど)して良いこと、そして評価するべき(されるべきは)結果であり、過程(どれだけ職場で時間を過ごしたかなど)ではないことでした。

・現在
 約2年間のアメリカ留学を経て、現在本院に勤務しています。出産・育児&留学のために出遅れ気味の臨床を少しずつキャッチアップさせてもらいながら、自分が学んできたことを生かすべく教育・研究に関わる機会をいただいています。当直回数は同学年の同僚より少し少なめに設定してもらっており、手術が長引き保育園のお迎え時間を超えそうであれば、誰ともなく交代を申し出てくれる有り難い職場環境です。同僚に助けてもらって仕事をしている分、自分の得意分野で極力恩返し出来るようにと考えています。ひところ“産科医療の崩壊”が叫ばれていましたが、産婦人科医の勤務状況はいまだに過酷です。産婦人科医としても母親・主婦としてもフルで仕事をしていたら、当然過労死認定ラインを超える過剰労働になってしまいます。私自身は、子供達のために楽しくやれる範囲で家事を行い、もう無理と思う前にある程度の家事労働をアウトソーシングしています。
 私にとってラッキーだったことは、何よりも“当事者意識のある夫”に恵まれたことです。長女の妊娠・育児中、悪阻や育児ノイローゼに苦しむ私を見てもどこか他人事だった夫ですが、2年間の育児休業を経験して育児がどれほど大変なものか骨の髄まで理解できたらしく、それ以来は育児の当事者として機能してくれています。また常に背中を押してサポートしてくれる上司、仕事の遅い私をカバーしてくれる同僚や後輩医師達の助けがあってこそだと感じています。
少子高齢化により出産・育児の価値が再認識され、医師不足から女性医師支援が盛んになっている今、時代はゆっくりでも確実に、子供を育てながら働く女性により良い方向に変化していっていると思います。

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みんなで子育て 外科系 H先生

 大学入学後、2年の時に、大学の4つ先輩であった夫が働き始めたのを機に、まだ学生だったのですが、決意して結婚しました。

 大学の女性の先輩で、学生中に妊娠出産されている方がいたことと、何人か女性医師の方とお話しする中で、少数ではありましたが学生の時に出産というのもありではないかという意見を聞き、5年生の年度末に長女を出産し、日中は実家の母に子供をみてもらい、臨床実習や卒業試験、国家試験の勉強をし、家に帰ると育児・家事という生活を送りました。実際の育児は想像をはるかに超えるもので、乳児のときは夜はおむつ替えやミルク、あやして寝かしつけしているうちにあっというまに朝が来ました。育児を甘く見ていたな、子供や母に申し訳ないなあと何度も考えていました。
 研修医になると夫の実家のある東京に引っ越し、義理の父母、24時間無認可の保育園にお世話になり、なんとか初期研修を終え、研修先の外科系診療科の先生の人柄や働く姿をみてこのような医師になりたいなあと思うようになったのがきっかけで、同診療科医となりました。
 その2年後、地元にて上司と相談し2人目を妊娠出産しました。産休2か月程度、その後は週1回院内保育所に子供を預け外来をさせていただき、人手不足の際には手術の手伝いにときどき行き、細く長く臨床を継続していました。2人目は、育児にもなれ、休みもとったため、最初より楽に感じ気分的にもゆとりがあり、楽しめました。また仕事を週1回でも続けることで、医師としてのモチベーションを保ち、仕事に戻りやすかったように思います。
 再び東京に戻った際にも半年間 週3回の時短勤務制度を利用し、子供との時間を確保しつつ職場の先生方に助けていただきながら勤務を続けることができました。
 現在、夫婦で当直をかぶらないように工夫しながら、フルタイムで勤務しています。
 時間の制約があり、ワークライフバランスで悩むこともありますが、仕事も家庭もやりがい・喜びを感じさせてくれるもので、自分にとって欠かすことのできない大切なものです。何でも完璧にはできないなかでも、周囲と相談しながら、それぞれの時間を無理のない範囲で頑張り貢献しようと思っています。

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