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建学の精神


病気を診ずして病人を診よ

解説
 建学の精神「病気を診ずして病人を診よ」は、創設者高木兼寛が目指した「医学的力量のみならず、人間的力量をも兼備した医師の養成」を凝縮したものである。この精神は看護学教育にも「病気を看ずして病人を看よ」として取り入れられている。
 本学の研究と医療を通じた社会貢献もこの精神のもとで行われる。  
建学の精神



建学の歴史〜沿革


――病気を診ずして病人を診よ――

 高木兼寛はすでに英国留学前に、英医ウィリスに実証的、実学的英国医学を学んでいたが、5年間のセント・トーマス病院医学校での勉学によってさらにその真髄を把握して帰国した。彼にあっては「医学は実学であり、何よりも病気の予防・治療のためのもの」であった。この信念は帰国早々開始した脚気病の研究において遺憾なく発揮された。当時は、まだ脚気に対するビタミン学説はなく、伝染病説が支配的であったが、高木は2隻の軍艦を使った壮大な遠洋航海実験から、栄養欠陥説を掲げ、それによって脚気を完全に駆逐することに成功した。眼前の患者を救い得ないならば、いかなる支配的学説も無用の長物にすぎないことを自ら実証したのである。
脚気の遠洋航海実験
脚気の遠洋航海実験(筑波)
 脚気の遠洋航海実験 高木はこの実験において、従来の白米食に変わり改善食を摂らせて、同じコース、同じ時間をかけて航海させた。その結果、白米食の水兵からは半数近い170人もの者が脚気にかかり、多くの死亡者が出たのに対し、改善食を摂った水兵からは一人の患者も出なかった。基礎医学的研究と臨床医学的実践の見事な統一であり、実学的医学の勝利であった。エイクマン(オランダ)が、この栄養欠陥説を発展させ、ようやくビタミン学説にたどり着いたのは22年後の1906年であった(エイクマンは抗脚気ビタミン、つまりビタミンB1発見の功を以て1929年のノーベル医学生理学賞を受けている)。
脚気論争と英語教育 このような栄養欠陥説の明らかな成功にも拘わらず、東京大学・陸軍軍医団を中心とするドイツ学派は、あくまでも脚気伝染病説をとって反対し続けた。これが有名な脚気論争である。この論争でもみられるように、海軍―英国医学と陸軍・東京大学―ドイツ医学とは事あるごとに対立し、常に一線を画していた。高木のつくった医学校において、外国語として常に英語を学ばせ、ドイツ語を排したのも、当時支配的であったドイツ学派に対する彼の強い抵抗の姿勢であった。

 実学的医学の実践者高木は医学校の教師の選択にもこの面から気を配った。医学専門学校時代をみても、世界ではじめて実験的発癌に成功した山極勝三郎・病理学教授や、エールリヒとともに世界最初の化学療法剤サルバルサンの合成に成功した秦佐八郎・細菌学教授や、フロイドの精神分析療法に匹敵するほど高名な森田療法を創案した森田正馬・精神科学教授など俊英をそろえていた。多くの医学校が医学専門学校に認可されなかった中で、高木のつくった医学校がほとんど無審査の形で認可されたのも(明治36年(1903))、教授陣、設備がいかに群を抜いていたかを示すものであった(わが国最初の私立医学専門学校であった)。学生実習で日本最初の死体解剖を行わせたのも(明治15年(1882))高木らしい実学的医学教育といえよう。
成医会講習所の記念碑
成医会講習所跡の記念碑

しかし、高木がこのような実学的医学の教育と平行して、あるいはそれ以上の情熱をもって実践したのは、人間形成のための教育であった。医師の前にあるのは、単なる細胞や臓器のかたまりではなく、病に悩む人間そのものである。これに対座する医師たる者は、病者の痛みを共感できる「医の心」をもたねばならない。高木はこの「心」を涵養するために色々と心を砕いた。宗教講座をもうけ名僧の講話を聞かせたのもその一つの試みであった。
いずれにしろ高木が意図し、またその後長く建学の精神となったものは「厳密な医学に裏打ちされた医術と、あたたかい心をもった医師を育てること」であり、「医学的力量のみならず、人間的力量をも兼備した医師を養成すること」であった。病者の側にたつ全人的医療こそが時代をこえて医師がなすべき使命だからである。現在、この建学の精神は「病気を診ずして病人を診よ」という標語に凝縮され、しばしば用いられている。

大学に昇格して間もない大正12年(1923)、わが大学は関東大震災に遭遇し、その施設、設備の殆どが灰塵に帰した。しかし、学長以下当事者の悲壮な努力によって復興に向かった。また、太平洋戦争敗戦後は、東京慈恵会―病院―医学校の関係が切れることになった(昭和22年(1947))。大学は学校法人慈恵大学として独立し、東京慈恵会はその主宰する東京慈恵会医院をこの法人に無償貸与し(即ち大学附属病院とし)、会自身は看護婦教育にのみ専念することになった。このように、この学園にも忘れ得ない不幸な出来事がいくつかあったが、高木が意図した建学の精神はそれらを切り抜け、130年余年の歴史を経た今日まで、変わることなく生き続けている。このことは、それぞれの時代の学長以下当事者の並々ならぬ努力の賜物であるが、ここに詳述する余裕はないので、その象徴として歴代校長、学長の氏名(年代)のみを列記するに留める。


歴 代 校 長 、 学 長
初代校長 高木 兼寛 明治14年(1881)―大正 9年(1920)
第二代校長 実吉 安純 大正 9年(1920)―大正10年(1921)
初代学長 金杉 英五郎 大正10年(1921)―昭和17年(1942)
第二代学長 高木 喜寛 昭和17年(1942)―昭和22年(1947)
第三代学長 永山 武美 昭和22年(1947)―昭和27年(1952)
第四代学長 寺田 正中 昭和27年(1952)―昭和31年(1956)
第五代学長 矢崎 芳夫 昭和31年(1956)―昭和33年(1958)
第六代学長 樋ロ 一成 昭和33年(1958)―昭和50年(1975)
第七代学長 名取 禮二 昭和50年(1975)―昭和57年(1982)
第八代学長 阿部 正和 昭和57年(1982)―平成 4年(1992)
第九代学長 岡村 哲夫 平成 4年(1992)―平成12年(2000)
第十代学長 栗原  敏 平成13年(2001)―平成25年(2013)
第十一代学長 松藤 千弥 平成25年(2013)―

 現在、本学は日本における私立医科大学の雄と評されており、また創立以来の卒業者総数も一万三千名を超えている。

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