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理事長挨拶


◇はじめに

 学校法人慈恵大学は、東京慈恵会医科大学、慈恵第三看護専門学校、慈恵柏看護専門学校、そして附属病院を運営しています。東京慈恵会医科大学医学部には、医学科と看護学科が併設されています。これは、学祖・高木兼寛が英国で医師と看護師が協力して患者さんの治療にあたっていることに感銘を受け、"医師と看護師は車の両輪"のように協力することの重要性を指摘したことから、医師と看護師が学生時代からお互いを理解するという理念に基づいています。また、大学院医学研究科博士課程と看護学専攻修士課程を設置し、臨床を支える医学研究、看護実践の質を高める看護学研究が振興されています。

◇概要

 東京慈恵会医科大学の前身は成医会講習所で、1881年5月1日、学祖・高木兼寛が京橋区鑓屋町11番地(現在の中央区銀座四丁目4番1号)に開設しました。その後、変遷を経て現在の港区西新橋三丁目25番8号に移転しました。時代と共に医療・医学の在り方は変化していますが、本学は質の高い医師と看護師を育成し、病んでいる臓器に捉われることなく、患者さんの心の痛みも理解して全人的な医療を実践するという高木の理念を今日まで受け継いでいます。また、明治時代国民病といわれていた脚気の原因は栄養の欠陥にあることを指摘し、海軍の兵食を改善して脚気を駆逐した研究は、ビタミンB1の発見の端緒となり、外国で高い評価を受けており、臨床を支える研究の振興にも努めています。
 これまでに、関東大震災、第二次世界大戦で校舎が壊滅的な被害を受けるなど、幾多の危機に直面しましたが、教職員と同窓の母校愛によって困難に立ち向かい乗り越えてきました。今後、新橋・虎ノ門地区の国際新都心構想を視野に入れた、本院外来棟の建築を中心とする西新橋キャンパスの再整備が計画されており、高木兼寛の理念は新たな環境の中でさらに輝いていくことになります。


◇本学の前身成医会講習所から今日までの変遷

本学と英国医学
 明治政府は当初、英国医学の導入を考えていましたが、その後、研究成果が目覚ましかったドイツ医学に傾倒し、ドイツ医学の採用を決めたのです。その結果、明治政府によって招聘されていた英国人医師、ウイリアム・ウィリスは解雇され、鹿児島藩に藩医として雇用され、開成学校の校長に就任しました。

 高木兼寛は、宮崎県高岡町穆佐村の出身で幼少から勉学に熱心で、鹿児島藩の開成学校で学ぶことになり、ウイリアム・ウィリスと出会い、海軍に入って英国に留学することを勧められ、英国ロンドンのセント・トーマス病院医学校(現在、キングスコレッジに併合)に留学しました。1875年のことです。高木は英国で、医師は看護婦と協力して目の前の患者さんをよく診て治療することの重要性を学びました。また、看護婦はナイチンゲールが創設した看護婦学校で教育を受けよく訓練されていることを見聞し、看護婦教育の重要性を実感しました。


成医会講習所と看護婦教育所
 1880年に帰国した高木は1881年5月1日に成医会を設立し、医師の育成を始めました。これが現在の東京慈恵会医科大学の前身です。また、1885年10月には日本で最初の看護婦教育所を開設し、米国人宣教師で看護婦であったミス・リードを初代取締として採用し、看護教育を開始しました。日本で最初の看護婦教育所です。

最初の民間慈善病院
 高木は1882年8月10日、我が国で最初の民間慈善病院、有志共立東京病院を開院し、病に苦しんでいる貧しい人に医療の手を差し伸べ、無料で受診できるようにしました。これらの事業は、高木の考えに賛同した多くの方の協力を得て行われたのであります。

医学専門学校から大学へ
 成医会講習所は、1903年(明治36年)11月2日、東京慈恵医院医学専門学校となり、1905年(明治38年)10月18日には私立の医学専門学校として指定され、本科の卒業生は無試験で医師免許証を受け取ることができました。これは、当時、私立の医師育成機関として教育体制が整備されていたことの証左です。

 東京慈恵会医学専門学校は、1921年(大正10年)10月19日、大学令によって日本初の単科医科大学として許可されました。本学の医師育成教育が、高い評価を受け社会的に認知されていたことが分かります。
1952年(昭和27年)には新制の東京慈恵会医科大学となり、1956年(昭和31年)には大学院医学研究科が設置され研究が振興されました。


社団法人東京慈恵会の支援を受けて
 医療費を請求しない有志共立東京病院の運営は経済的に困窮していましたが、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下が窮状を周囲に訴えたところ、渋沢栄一氏らの奮闘によって、慰子妃殿下を総裁、徳川家達氏を会長、渋沢栄一氏を副会長として社団法人東京慈恵会が発足し支援することになりました(1907年)(明治40年)。現在、社団法人東京慈恵会は公益社団法人東京慈恵会となり、鄂凌堂θ淇子殿下を総裁、徳川恒孝氏を会長として、慈恵看護専門学校を運営するとともに、看護教育指導者のための教務主任養成講習会を開催して社会貢献しています。

看護教育の変遷
 高木は、英国では"医師と看護師が車の両輪"のように協力して治療にあたっていることに感銘を受けました。その精神を継承し学生時代から医師と看護師がお互いの理解を深めるために、医学部の中に医学科と看護学科を併設し(1992年)(平成4年)、日本で最初の試みとして注目されました。さらに、働いている看護師の質の向上を図るために、2009年(平成21年)4月、医学研究科に看護学専攻修士課程を開設し、医療現場で働いている看護師が修士課程でさらに研鑽することを奨励しています。


高木兼寛の脚気の研究(脚気栄養欠陥説)
 高木は医学研究でも大きな足跡を残しています。明治時代に国民病といわれ、多くの人が亡くなっていた脚気の原因は栄養の欠陥であることを示唆しました(栄養欠陥説)。当時、ドイツ医学を学んで帰国した人たちは、病気の原因を細菌に求めていましたが、高木は欧米の健康な成年男子の食事の窒素・炭素比が1:15であることに注目し、海軍兵士の食事を調べたところ窒素・炭素比が高いと脚気になりやすいことに気づきました。海軍軍医総監であった高木は、海軍の練習艦筑波の兵士の食事を改善して、遠洋航海させたところ脚気による死者は1名もでず、旧来の兵食で同じ航路を航海した龍驤で脚気による死者が25名でた結果とは対照的でした。この結果を受けて、高木は脚気栄養欠陥説を確信するようになりました。高木の提言で兵食を改善した海軍では脚気が駆逐されましたが、脚気細菌説に捉われていた陸軍では多数の脚気による死者が出続け、日清、日露戦争では戦死者よりも脚気患者の方が多かったという記録があります。高木の研究は、ビタミンが発見される30年も前のことで、海外で高く評価され南極には"高木岬"と命名されている岬があります。海軍の練習艦、龍驤と筑波を遠洋航海させ、従来の兵食と改善食を使って脚気の発症率を比較した研究は、本邦初の大規模介入試験として高い評価を受けています。

臨床を支える研究の振興
 本学では、高木が行ったように臨床を支える研究を振興しており、1995年(平成7年)4月に、総合医科学研究センターを開設して、先端的な研究を推進してきました。平成26年4月にはこれまでの組織を改編して、研究者がより利用しやすい体制になりました。総合医科学研究センターには、各研究部の他に、高次元医用画像工学研究所(国領キャンパス)と臨床医学研究所(柏キャンパス)の2研究所と、研究を支援する支援部門が設置されています。一般研究員として登録すれば、支援部門にある各施設の機器を自由に使うことができます。

 さらに、2014年(平成26年)4月には臨床研究支援センターを開設して、研究の立案、データの解析と分析、研究の進捗のモニター、論文の執筆などを支援し、質の高い臨床研究論文が発表できるようにしました。研究倫理に関する教育は、これまでも、大学院教育カリキュラムの中に組まれていましたが、卒前から研究倫理教育を行うように改善されます。また、倫理委員会も、侵襲性を伴う研究と観察研究などを審査する部会とを分けて、慎重かつ効率的に審査を行えるように改善されました。


慈善病院から今日まで
 有志共立東京病院の開院から今日まで歩みを進めてきた本学の附属病院は、西新橋の本院に加えて、葛飾医療センター、第三病院、そして、柏病院の4病院になりました。それぞれの附属病院は、本院と連携を図りながら特色を出して、地域の医療ニーズに応えています。"病んでいる臓器に捉われることなく病んでいる人の心を理解して全人的に診る"という高木の精神を受け継いで診療しています。また、医療安全を第一としてチーム医療を重んじており、医療者間のコミュニケーション能力を高めるためにワークショップが随時開催されており、医師と看護師だけでなく、様々な職種の人が参加しています。

◇おわりに

 このように、多くの日本の医科大学がドイツ医学を規範としたのに対して、本学は英国医学に学び独自の歩みを進めてきました。現在、全国の医科大学が患者さん中心の医療の実践を掲げていますが、本学では、開学当時から患者さん中心のチーム医療の考え方に基づいて医療を実践すると共に、臨床を支える研究を振興してきました。また、幾多の危機に遭遇しましたが、社団法人東京慈恵会の支援と、教職員と同窓のかたい絆によって乗り越えて今日に至っており、日本の医学・医療の歴史に独特の歩みを刻んできました。本学に受け継がれている建学の精神はこれからも褪せることなく一層輝いていくものと思います。




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