昨今、癌の治療をはじめとして科学的な根拠に基づいた医学の重要性が叫ばれ、従来の医師個人の経験やカンに頼っていた治療法が見直されるようになってきました。
しかし、今から120年前の明治17年にもすでに大いなる医学上の試みがなされていました。当時、原因不明の脚気病が兵隊に蔓延し国家的問題になっていました。海軍医務局長であった高木兼寛は脚気の原因は兵食の不良にあるとする「栄養欠陥説」を唱え、これを実証するための試験を実行に移します。
明治16年に遠洋航海で多くの脚気患者を出し、航行不能に陥った軍艦がありました。高木は明治17年に別の軍艦に前の軍艦とまったく同じ航路を取らせ、兵食を従来の日本食から西洋食に変えてみました。結果として脚気の患者数は大幅に減少しました。
後に、脚気の原因はビタミンB1の欠乏であることが証明されました。しかし当時の著名な学者たちが「伝染説」を声高に唱えていた時代にあって、自らの仮説をその行動力によって見事に実証した業績は今も高く評価されています。 |