明治13年に英国ロンドン大学セント・トーマス病院の留学を終えて帰国した高木兼寛は、翌年の明治14年に松山棟庵とともに英国を規範とする慈善病院の創設を東京府知事に申し出ました。これは明治維新以来近代化を急いだ日本で始めての慈善病院(有志共立東京病院)創設の構想でした。高木らが知事に提出した文章には「富者は自ら慈善の徳を積み、貧者はその恩恵に由って、天寿を全ふするを得ば、有志者の心に於いて・・・。」の一節があり、高木の崇高なヒューマニズムを見て取ることが出来ます。
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欧州においてはドイツのベルリン大学シャリテ病院やフランスのパリ大学のビティエ病院も同じような考えから命名されています。
高木らの目覚しい活動は岩倉具視や伊藤博文などの明治新政府の要人の心にも響いて大きな社会的反響を呼び、皇室からも御下賜金を受け取ることが出来ました。
有志共立東京病院総長には有栖川威仁親王が選ばれています。
そして明治20年、有事共立東京病院は東京慈恵会医院と改称されて、皇后陛下のご臨席を仰いで盛大な開院式が行われました。(北 嘉昭)
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