看護師の労働が厳しく、医療も十分発達していなかった明治23年当時、学業途上や、勤務の途中で、病に倒れ死亡する人も少なくありませんでした。有志共立東京病院看護婦教育所(現在の慈恵看護専門学校)の創始者 木兼寛はこのことに心を痛め、東京赤坂区に埋葬のための墓地として払い下げの願いを出しました。払い下げを受けた青山墓地二種イの七号には、明治23年〜35年に亡くなられた松浦里子氏ら5名のお墓が現在もあります。(慈恵看護教育百年史より)
その後も、墓参・清掃など行われていましたが、台風や大雨後は周辺の土が崩れて墓石が流されそうになることが多々ありました。「慈恵の看護の歴史を学生はじめ多くの人たちに伝える上でも同窓会としてきちんと管理していくべき」との方針で、平成12年慈恵看護専門学校同窓会により改修・整備が行われました。毎年、慈恵大学解剖慰霊祭の後、同窓会役員により墓参が行われています。 |