源流 〜貧しい病者を救うために〜
東京慈恵会医科大学の源流は、高木兼寛(嘉永2年(1849)―大正9年(1920))によって明治14年(1881)5月1日に創立された成医会講習所に始まる。彼は脚気の原因について栄養欠陥説を提唱し、それによって日本海軍から脚気を撲滅した人として世界的に有名である。明治8年(1875)から5年間、海軍生徒として英国セント・トーマス病院医学校に学んでいるが、その頃すでにこの学校のように権威のある医学校を、いずれは日本につくってみたいと思っていたらしい。彼は計画の予定を著しく早めて、帰国早々のあわただしい中でこの成医会講習所なる医育機関を創設している。これは帰国後、日本医学界全体の急激な、しかも好ましくない変貌に気づいたからであった。英医ウイリスの下向に始まる明治政府のドイツ医学採用の方針は、わが国医学界の風潮を急速にドイツ的医風に変容させつつあった。特に当時唯一の医育機関であった東京大学は、この医風で固められていた。権威主義、研究至上主義が横行し、病気をもつ人間を医学研究の対象ないしは研究材料とみる傾向が強かった。高木は、より健全な英国医学の萌芽を日本の土壌に育成する必要があると痛感した。彼は松山棟庵とともに明治14年(1881)1月、成医会なる研究団体を、次いで同5月にこの成医会講習所を設立している。「患者を研究材料とみる医風から、患者を病に悩む人間とみる医風へ」転換しようとしたのである。
成医会、成医会講習所のその後
成医会は今でも学術団体として活動しており、平成27年(2015)現在までに132回の成医会総会を開いている。また同会発行の雑誌「東京慈恵会医科大学雑誌」も続刊されており、平成27年は130巻を刊行中にある。
成医会講習所は、初め京橋区鎗屋町11番地(現在の中央区銀座4丁目4-1)に開所されたが、創立100年を迎えた昭和56年(1981)5月1日、この地を東京慈恵会医科大学発祥の地として創立記念碑が建立された。
明治15年(1882)、高木は戸塚文海とともに有志共立東京病院なる慈善病院を発足させている。この病院の設立趣意には「貧乏であるために治療の時期を失したり、手を施すことなく、いたずらに苦しみにさらされている者を救うこと」にあるとしている。「美服をまとい資力のあると認められた者はむしろ断られる」風さえあったという。このような趣意は、高木が英国留学中にうけた人道主義や博愛主義の強い影響によると思われる。同病院の資金は有志の拠金によるものであり、有志共立という名はそのためであった。病院総長としては有栖川威仁親王を戴き、また海軍軍医団の強い支援があった。海軍軍医団は英国に学んだ者が多く、その点軍医の多くをドイツに留学させ、東京大学と密接な関係をもっていた陸軍とはすべての面で対抗意識が強く、常に一線を画していた。東京大学でも施療患者の制度ができていたが、それは「貧困にして、その医学研究上とくに重要と認められた者は、無料入院せしめ治療を施すものとす」とあるように、むしろ研究材料を確保する意向が強かった。
有志共立東京病院は、こうした慈善病院のほかに医学教育の場としても重要な役割をはたしていた。成医会講習所や海軍軍医学校の実習病院の役割を担ったのである。これは、英国で経験した慈善病院と医学校の関係を東京に実現しようとしたものである。明治20年(1887)、同病院は皇后を総裁に迎え、その名も東京慈恵医院と改め、経費は主に皇室資金によることになった。成医会講習所も成医学校に、次いで東京慈恵医院医学校に改称され、同病院構内(芝区愛宕町二丁目、現港区西新橋三丁目)に移転した。
有志共立東京病院時代の特筆すべき事業の一つに看護婦教育所の設立がある。英国留学時代、セント・トーマス病院に付設されていたナイチンゲール看護学校を目撃した高木は、日本の近代看護教育の導入にも極めて積極的であった。彼は明治17年(1884)10月、米国宣教師のリード女史を招き看護婦教育を行わせている。これが日本での近代看護教育のはじまりである。第一回生はわずか5名であったが、総裁皇后の臨席をえて卒業式が行われた。現在の慈恵看護専門学校はこの流れを汲むものである。
明治40年(1907)、有栖川宮威仁親王妃慰子殿下を総裁とする社団法人東京慈恵会が設立され、東京慈恵医院の経済的支援をすることになったので、東京慈恵医院は東京慈恵会医院と改称され、またすでに医学専門学校に昇格していた東京慈恵医院医学専門学校は東京慈恵会医院医学専門学校と改められた(東京慈恵会の精神的基盤は仏教の慈悲心にあるといわれる)。
大正10年(1921)、大学令の公布を機会に東京慈恵会医院医学専門学校は東京慈恵会医科大学に昇格した。そのとき、高木家私有の東京病院が大学に寄付されたため、当医科大学は附属病院をもつことになった。昭和27年(1952)に学制改革による新制の大学となり、昭和31年(1956)、大学院医学研究科博士課程の設置が認可された。
建学の歴史~沿革 〜病気を診ずして病人を診よ〜
高木兼寛はすでに英国留学前に、英医ウィリスに実証的、実学的英国医学を学んでいたが、5年間のセント・トーマス病院医学校での勉学によってさらにその真髄を把握して帰国した。彼にあっては「医学は実学であり、何よりも病気の予防・治療のためのもの」であった。この信念は帰国早々開始した脚気病の研究において遺憾なく発揮された。当時は、まだ脚気に対するビタミン学説はなく、伝染病説が支配的であったが、高木は2隻の軍艦を使った壮大な遠洋航海実験から、栄養欠陥説を掲げ、それによって脚気を完全に駆逐することに成功した。眼前の患者を救い得ないならば、いかなる支配的学説も無用の長物にすぎないことを自ら実証したのである。
脚気の遠洋航海実験 高木はこの実験において、従来の白米食に変わり改善食を摂らせて、同じコース、同じ時間をかけて航海させた。その結果、白米食の水兵からは半数近い170人もの者が脚気にかかり、多くの死亡者が出たのに対し、改善食を摂った水兵からは一人の患者も出なかった。基礎医学的研究と臨床医学的実践の見事な統一であり、実学的医学の勝利であった。エイクマン(オランダ)が、この栄養欠陥説を発展させ、ようやくビタミン学説にたどり着いたのは22年後の1906年であった(エイクマンは抗脚気ビタミン、つまりビタミンB1発見の功を以て1929年のノーベル医学生理学賞を受けている)。
脚気論争と英語教育 このような栄養欠陥説の明らかな成功にも拘わらず、東京大学・陸軍軍医団を中心とするドイツ学派は、あくまでも脚気伝染病説をとって反対し続けた。これが有名な脚気論争である。この論争でもみられるように、海軍―英国医学と陸軍・東京大学―ドイツ医学とは事あるごとに対立し、常に一線を画していた。高木のつくった医学校において、外国語として常に英語を学ばせ、ドイツ語を排したのも、当時支配的であったドイツ学派に対する彼の強い抵抗の姿勢であった。
実学的医学の実践者高木は医学校の教師の選択にもこの面から気を配った。医学専門学校時代をみても、世界ではじめて実験的発癌に成功した山極勝三郎・病理学教授や、エールリヒとともに世界最初の化学療法剤サルバルサンの合成に成功した秦佐八郎・細菌学教授や、フロイドの精神分析療法に匹敵するほど高名な森田療法を創案した森田正馬・精神科学教授など俊英をそろえていた。多くの医学校が医学専門学校に認可されなかった中で、高木のつくった医学校がほとんど無審査の形で認可されたのも(明治36年(1903))、教授陣、設備がいかに群を抜いていたかを示すものであった(わが国最初の私立医学専門学校であった)。学生実習で日本最初の死体解剖を行わせたのも(明治15年(1882))高木らしい実学的医学教育といえよう。
しかし、高木がこのような実学的医学の教育と平行して、あるいはそれ以上の情熱をもって実践したのは、人間形成のための教育であった。医師の前にあるのは、単なる細胞や臓器のかたまりではなく、病に悩む人間そのものである。これに対座する医師たる者は、病者の痛みを共感できる「医の心」をもたねばならない。高木はこの「心」を涵養するために色々と心を砕いた。宗教講座をもうけ名僧の講話を聞かせたのもその一つの試みであった。
いずれにしろ高木が意図し、またその後長く建学の精神となったものは「厳密な医学に裏打ちされた医術と、あたたかい心をもった医師を育てること」であり、「医学的力量のみならず、人間的力量をも兼備した医師を養成すること」であった。病者の側にたつ全人的医療こそが時代をこえて医師がなすべき使命だからである。現在、この建学の精神は「病気を診ずして病人を診よ」という標語に凝縮され、しばしば用いられている。
大学に昇格して間もない大正12年(1923)、わが大学は関東大震災に遭遇し、その施設、設備の殆どが灰塵に帰した。しかし、学長以下当事者の悲壮な努力によって復興に向かった。また、太平洋戦争敗戦後は、東京慈恵会―病院―医学校の関係が切れることになった(昭和22年(1947))。大学は学校法人慈恵大学として独立し、東京慈恵会はその主宰する東京慈恵会医院をこの法人に無償貸与し(即ち大学附属病院とし)、会自身は看護婦教育にのみ専念することになった。このように、この学園にも忘れ得ない不幸な出来事がいくつかあったが、高木が意図した建学の精神はそれらを切り抜け、130年余年の歴史を経た今日まで、変わることなく生き続けている。
現在、本学は日本における私立医科大学の雄と評されており、また創立以来の卒業者総数も一万三千名を超えている。