理事長挨拶
学校法人慈恵大学は、東京慈恵会医科大学、2つの看護専門学校(慈恵第三看護専門学校、慈恵柏看護専門学校)、そして4附属病院(本院、葛飾医療センター、第三病院、柏病院)を設置しています。東京慈恵会医科大学・医学部には医学科と看護学科が併設されていますが、これは、学祖・高木兼寛が英国に留学した際、医師と看護師がお互いに協力して患者さんの治療にあたっていることに感銘を受け、“医師と看護師は車の両輪”のように協力して、医療を実践することが求められ、そのためには、医師と看護師が学生時代からお互いをよく理解することが必要とされるという理念に基づいています。また、大学院医学研究科博士課程と医科学専攻修士課程、看護学専攻博士課程(前期・後期)を設置し、臨床を支える医学研究と看護実践の質を高める看護学研究が振興されています。
東京慈恵会医科大学の前身は成医会講習所で、1881年5月1日、学祖・高木兼寛が京橋区鑓屋町11番地(現在の中央区銀座四丁目4番1号)に開設しました。その後、変遷を経て現在の港区西新橋三丁目25番8号に移転しました。時代と共に医学・医療の在り方は変化していますが、本学は質の高い医師と看護師を育成し、病んでいる臓器を診る(看る)ことに捉われることなく、病を抱えている患者さんの心の痛みをよく理解して、全人的な医療を実践するという高木兼寛の理念を継承しています。また、明治時代、国民病と言われていた脚気の原因は、栄養の欠陥であることを指摘し、海軍から脚気を駆逐したことがビタミンB1発見の端緒となり外国で高い評価を受けており、臨床を支える研究の振興にも努めています。 明治時代、日本はドイツ医学を規範としたのに対して、本学は英国医学に学び独自の道を歩んできました。現在、全国の医科大学が患者さんを中心とする医療の実践を掲げていますが、本学では、開学当時から患者さんを中心とするチーム医療を実践してきました。医療には医師だけでなく看護師の協力が必要との考えから、高木兼寛は、日本で最初の看護婦教育所を開設しました。また、貧しい人も医療を受けられるようにと考え、現在の附属病院に続く有志共立東京病院を開院しました。本学は、現在に至るまで、社団法人東京慈恵会の支援と、教職員と同窓とのかたい絆によって幾多の困難を乗り越え、日本の医学・医療の歴史に独特の足跡を残してきました。建学の精神“病気を診ずして病人を診よ”は、これからも一層輝いていくものと思います。
略歴
1971年 東京慈恵会医科大学医学部卒業
1971年 東京慈恵会医科大学第二生理学教室 助手
1976年 東京慈恵会医科大学第二生理学教室 講師
1978年 英国University College London生理学教室 留学
1979年 米国Mayo Clinic薬理学教室 留学
1980年 東京慈恵会医科大学第二生理学教室 助教授
1986年 東京慈恵会医科大学第二生理学教室(現、細胞生理学講座) 教授
1992年 東京慈恵会医科大学医学部看護学科 兼担教授
2001年 東京慈恵会医科大学 学長(2013年まで)
2001年 東京慈恵会医大学医学部看護学科長(2008年まで)
2001年 学校法人慈恵大学 理事
2003年 学校法人慈恵大学 理事長(現在に至る)
2012年 東京慈恵会医科大学 名誉教授