第19回 面白いと思った自分の直感を信じて真面目に取り組み続けて成果を生み出す



今回ご紹介するのは、薬理学講座担当教授の青木友浩さんです。くも膜下出血の原因となる脳動脈瘤を治療する薬の研究に長年取り組んでいます。
脳外科医としてスタートし薬の開発のために薬理学へ


金古
研究者を目指したきっかけはどんなことだったのでしょうか。
青木
僕の出身の京都大学では医学部生は結構研究する人が多くて、学生時代は内科の研究室で研究していたのですが、いろいろと思うところがあって、2001年に卒業する時に脳外科医になる道を選びました。
卒業して5年ほどは脳外科医として病院で臨床医として仕事をしていたのですが、2005年に大学院に進学して脳動脈瘤の研究をしていた時に、脳動脈瘤には薬がないことに興味を持って、ある日、自分なら薬を作れると考えたのです。大学院に入って研究を始めて3年目くらいのことでした。
脳外科医は外科医なので、手術を練習して腕を磨くのが普通です。基本的に内科医の発想がないので薬を作ろうとしませんし、実験に取り組む人はあまりいません。ずっと自分にしかできない治療法を作りたいと考えていた僕にはぴったりの世界でした。
薬を作りたいと思った時に、脳動脈瘤の治療薬に取り組んでいる人がいなかったのも、惹きつけられた理由の一つです。世界でやっている人がほぼいなくて、いわゆる“お山の大将”になれると思ったのです。
そこで大学院を卒業する時に、当時の僕の脳外科の師匠に「多分薬が作れるので、研究がしたい」と申し出たところ、研究だけをしているなら要らないと言われてしまいました。どうなるか先が分からなかったのですが、京都大学の薬理学に身を移しました。本格的に研究者になったのはそれからです。


金古
脳動脈瘤の薬の開発に取り組む人が少なかったのはなぜでしょうか。
青木
脳動脈瘤という病気はくも膜下出血の原因となるものなので、社会的にはがんの治療薬とおなじように重要です。ところが消化器のがんであれば、消化器内科の先生と消化器外科の先生が関わり、まず内科医が治療薬を投与して、改善が見られなければ外科医が手術するといった流れになります。
ところが脳外科で内科に当たる神経内科が診る病気はアルツハイマーやALSなどで、脳外科とは全然違う病気です。脳腫瘍が原因となるくも膜下出血は脳外科医しか対応しない病気で、しかも外科手術が一般的です。
しかもくも膜下出血の原因となる脳動脈瘤の研究に対しては、脳外科医しか興味を持ちませんが、その脳外科医は手術で治そうと考えます。脳外科医は外科医なのですから当然です。だから当時、治療薬の研究している人がほとんどいなかったのです。
ほとんどの首から下の診療科は外科と内科がペアになっているので、脳外科のような診療科は例外的な特殊な存在です。他には整形外科くらいでしょうか。
京都大学の厳しい教授から研究に取り組む意義を学んだ


金古
最初に脳外科の道を選んだのはどうしてなのでしょうか。
青木
それほど高尚な理由があったわけではありません。自分の手先の器用さに自信を持っていたので、手術が多い脳外科か移植外科のどちらに進もうと考えていました。当時は今のようなマッチングのシステムがなく、志望書に第一志望から第三志望まで書くことになっていたのですが、第一志望でないと失礼だとギリギリまで迷いました。
その時の京都大学脳神経外科学講座教授である橋本信夫先生は、世界で一番手術がうまいと言われていた方で、すごいダンディで格好良かったのと、脳外科は個人の手腕に依存する割合が高く、自分の腕で生られる世界だったことから、最終的に脳外科の道を選んだのです。
一つ選ばないといけないので、真剣に悩んではいたのですが、選択コースで各科を回ることを通して、内科ではなく外科、外科の中でも脳外科か移植外科、そして最終的に脳外科に決めた理由は、何か面白そうということだったかと思います。
やはり興味を持てるかどうかということが非常に大事です。脳外科にしても移植外科にしても、実際に経験していないので、よく分からない机上の空論の世界なってしまいます。最後は自分がこれでいいと決めるしかないのです。


金古
学生時代に影響を受けた方はいたのでしょうか。
青木
学生時代はあまりそういう方はいなかったと思います。高校も大学も自由な校風で、テストで点数さえとれれば何をしても構わないという学校でした。自ら学べということで、僕も授業に出ないで、自分が面白いと思う実験ばかりやっていました。人の影響を受けるようになったのは、医師や研究者になってからですね。
勿論、先生の中には優秀で素晴らしい、ノーベル賞を受賞した教授もいらっしゃいましたが、憧れる、というような先生はいませんでした。ただ研究者として大切な「自分の楽しいことをやらないと意味がない」という発想を持つようになったのは、高校や大学の校風のおかげだと思っています。


金古
先生が影響を受けた方はどのような方なのでしょうか。具体的に教えてください。
青木
人生的に影響を受けたのは、京都大学の薬理学の成宮周先生ですね。私は大学院を卒業した後、特別研究員としてスタッフをしていたのですが、その時の教授で文化功労賞とかを受けた非常に高名な先生で、大変尊敬していました。今の自分があるのは、成宮先生のおかげだと思っています。
成宮先生は非常に厳しく、ずっと怒鳴っているような方でした。しかし、すごく賢い方でなんでも知っていました。研究することが趣味の人で、ネイチャーとかにも論文が載ったりしましたが、脳動脈瘤の研究は自由にやらせてくれました。
スタッフとして彼の研究をこなしていれば、後は自由にお金も使って良いというパターンでした。彼は生物学のような研究をしていて、脳腫瘍という一つの領域には興味を持っていないのですが、大局観的な視点を持っていました。
僕たちが研究で得た色々なデータを持っていくと、面白いと思うと色々なアドバイスをくれました。7年半お世話になったのですが、脳動脈瘤という一つのことを継続して研究していて一つ一つ成果を上げていくと、生命のメカニズムがいろんな病気に共通していることがわかりました。
炎症、特に慢性炎症という長く続く炎症があって、それが全ての病気の基盤なのです。がんもそうですし、動脈瘤とかアルツハイマーなど生命現象は結構同じ基盤があって、少しずつ違うことで、違う病気になっていきます。大腸がんとか多発性硬化症など、脳動脈瘤とは違う研究を通して、そういうことを彼から学べました。

現場を知っている医師だから 治療に役立つ研究ができる


金古
今の研究は医学的にどう重要なのでしょうか。。
青木
僕たちの研究は研究生物学ではありません。まさに病気の基礎の研究です。医師をやっていた研究者の使命は病気を直すことです。医師ではない人の研究は、医療の現場を知らないために、病気を治す方向には行きません。僕は脳外科医としてのキャリアを持っているので、脳外科の病気を治そうと考えます。
脳動脈瘤が引き起こすくも膜下出血の死亡率は50%で、社会復帰率は10%しかありません。いまだに治療できない病気、アンメットメディカルニーズのひとつです。今、治療法は手術しかありませんが、原因である脳動脈瘤が破裂さえしなければ良いのです。
そのため、今取り組んでいる研究のひとつは破裂を予防することです。僕が研究を始めた頃は脳動脈瘤がなぜできるかわかっていませんでした。当然、大きくなって破裂するメカニズムもわかりません。生まれつきの奇形みたいな病気だと言われていた時代もありました。
しかし、最近ではなぜ発生し、なぜ増大して、なぜ破裂するのがわかっています。血液が血管の壁にあたることで起きる炎症反応の結果として、血管が弱くなって膨らんで破裂するのです。このメインストリームは僕たちが研究によって導き出したものです。
金古
研究分野として注目されているのでしょうか。
青木
以前は研究の対象ですらないと思われていましたが、世界中に研究者が増えてきています。モデル動物にて薬で治せることを僕たちが突き止めてからは、臨床の先生方も興味を持つようになって。研究論文が一気に増えてきました。
研究を始めたときは、学会で自分だけが脳動脈瘤の話をしていた感じでした。世界で4カ所くらいしか研究しているところはありませんでしたが、今では学会で動脈瘤のセッションが組まれるようになりました。
動脈瘤というのは炎症の病気なので僕らが作っている薬は、がんのような炎症が原因の他の病気にも応用できます。メカニズムが一緒なので、他の病気にも貢献できるでしょう。

これまで研究してきてやりがいや辛かったことなどはありますか。


青木
僕たちの研究を真似る研究をする人が増えてくることにはやりがいを感じます。以前は動脈瘤の研究論文は自分たちのものだけでしたが、いろいろなところから論文が発表され、海外からも声をかけられるようになっています。
苦労したことはいっぱいありますね。研究自体は十のうち一つしか上手く行かないのが当たり前ですから、失敗することは苦になりません。自分の知識の範囲でしか考えられないから失敗するのは当然です。
一番苦労したのは脳外科から薬理学に移った時です。そこは日本最大規模のラボで一流の研究者が揃っていました。そこに研究をずっとやっていたわけではない、脳外科医が入ったわけです。3年くらいは死ぬ思いでした。
ただ、医師なので食べていくことはできるという気持ちはありましたし、やりたかった脳動脈瘤の研究にずっと取り組めたことは幸せでした。
データが示してくれた面白さに全てを賭けられるのが研究者


金古
研究者として大切なのはどんなことだとお考えでしょうか。
青木
面白いと直感したことを徹底的にやることです。実験で自分が思っていたのとは違うデータが出てきて、それが面白いと感じる瞬間が年に何回かあります。仮説に合わなくとも面白いと思うデータが出た時は、仮説を全部捨ててもそこにかけるべきなのです。成宮先生から学んだことですね。
ノーベル賞とかでも偶然の失敗から生まれることがあります。自分の考えた通りのデータは論文を書くには良いですが、あまり面白くなくて先の広がりがないのです。予想外のことから新しい世界が広がるというのを何度か経験してきました。面白いと感じた時にそこに全力を傾けられるのは、研究者に必要な資質です。
研究室を預かる立場で心掛けているのは、あまり口を出さずに個人のアイデアを尊重して自由に研究してもらうことです。自分の経験値に囚われていては、自分より大きな人材は育ちません。ただ、学位をとることは重要なので、学位については必ず取れるように指導します。今まで全員が学位を取得しています。


金古
慈恵は研究がやりやすい医科大学だと思われますか。。
青木
僕らのような病気を研究する場としては非常にやりやすいところです。多くの先生方がフランクで、喜んで協力してくれます。
慈恵にくることができたのも、自分が面白いと思ったことを真面目に継続してきたからだと思います。真面目にやって継続していると誰かが認めてくれます。成宮先生もそうでしたし、その後の国立循環器病研究センターもそうでした。慈恵もそれを受け入れてくれています。


金古
最後に研究者を目指す学生さんにメッセージをいただけますか。
青木
何度も繰り返すように、研究者に求められるのは、自分が面白いと思うことを、真面目に徹底的にできるかどうかです。他人に言われて目指すものではありません。面白いということを一定期間愚直に頑張ることが一番必要なことです。
医師というのはある意味恵まれています。面白いことを3年くらいやってみてダメであっても、臨床医として頑張るという選択肢が残されています。自分が面白いと感じて、賭けてみたいというテーマが見つかったら、打ち込んでみても良いのではないでしょうか。

対談者プロフィール

青木友浩(あおき ともひろ)
甲陽学院高等学校卒業、京都大学入学。
水泳部に所属しつつ、研究室に通い研究に触れていた。2001年卒業。5年間の脳神経外科医としての臨床経験の後に、大学院にて脳動脈瘤研究を開始し、薬物治療法開発の夢を持ち研究活動を継続中。2023年本学薬理学講座に着任。自分が面白いと思うことに一生懸命努力していれば必ず道が開けること、を実感しつつ研究を継続中。

金古夏音(かねこ かのん)
鷗友学園女子高等学校卒業。
中学生の時に父が病気を患ったこと、自身が空手を通じて怪我をしてきたことなどをきっかけに医学を志す。
2年生になり、基礎医科学を学修して臨床と研究双方の重要性を実感。異なる学問でもその間に様々な繋がりを感じ、医学への関心が益々高まっている。
学内ではスキー部、ESSに所属。学外では幼い頃から続けている空手に励む。