対談 教授 x 学生 第23回

第23回 血糖変動をリアルタイムで「見える化」し 一人ひとりに最適な糖尿病治療を届ける

今回ご紹介するのは、内科学講座(糖尿病・代謝・内分泌内科)講座担当教授の西村理明先生。糖尿病専門医として患者さんに寄り添うなかで持続血糖モニター(CGM)と出会い、日本の糖尿病治療の進歩に大きく貢献してきました。なぜ医師を志したのか。研究者として成果を生み出す原動力は何か。そしてAI時代、医師・研究者に求められるものとは――。これまでの歩みと、未来への思いを聞きました。

「わからない」があるからこそ医学は面白いと思った

高山

―なぜ、医師を志したのでしょうか。

 

西村 

父の影響が大きかったですね。父は京都出身で、祖父は反物を扱う近江商人。百貨店に品物を卸すほど手広く商いをしていました。父は終戦直後、京都府立医科大学に入学します。生家は洋風建築と和風建築が組み合わさった住宅で、洋間が米軍に接収され、そこに軍医さんが暮らすことになりました。この出会いが、父の人生を大きく変えます。家族に恩義を感じていたその軍医さんが、帰国する際に「何か恩返しをしたい」と申し出てくれたそうです。そこで父は、「アメリカで医学を学ばせてほしい」と頼みました。軍医さんの紹介を受け、フルブライト奨学金を得て船で渡米。テネシー州メンフィスにある小児病院で学び、アメリカの小児科専門医資格を取得しました。さらに、現地の上司の紹介でボストンへ移り、小児がんの権威であるファーバー博士のもと、小児白血病の寛解に多々、立ち会ったそうです。帰国後は京都へ戻らず、聖路加国際病院で働くことになり東京へ移り、そこで私が生まれました。
父の勤務先にはよく連れて行かれ、父の部屋で医師や看護師さんの仕事を眺めたり、病院の裏動線を歩いたりしていました。幼い頃から、日常的に病院という世界に「暴露」されて育ったのです。
高校で進路を考えたとき、自然と医学部に進むことを選びました。振り返れば、早くから臨床の世界に触れ、白血病の臨床研究に取り組む父の背中を見てきたことが、大きく影響していたのだと思います。

恩師との出会いが進むべき道を決めた

高山

―慈恵では、どのように過ごされましたか。

 

西村 

できるだけ多くのことを経験しようと考えていました。学生時代には実習で遺伝子操作に取り組み、毎日20時頃まで、現在のDNA研究所にあたる細菌学の研究室にこもっていたこともあります。時間を見つけて長野で農業のアルバイトをしたり、オートバイで北海道を一周したりもしました。
卒業後は母校で臨床研修を始めました。内科を回ると、父が血液を専門とする小児科医だったことがどこからか伝わり、どの診療科でも血液疾患の化学療法を担当することになりました。その経験を通じて、医師にはなったけれど、父とは違う道に進もうと確信するようになったのです。その後、第三内科に入局し、田嶼尚子先生との出会いによって人生が大きく動き始めました。
田嶼先生は、北海道でお生まれになり、外科医を父に持ち、「Girls, be ambitious」という言葉に背中を押されて医師を志した方です。慈恵を首席で卒業し、本学初の女性主任教授になられました。第三内科の同門会で田嶼先生から「あなたは何がしたいの」と問われ、「病気の予防に取り組みたい」と答えると、間髪を入れずに「明日から私のところに来なさい」と。その瞬間、私の専門は糖尿病に決まり、さらに公衆衛生と疫学の道へ足を踏み入れることになったのです。

それまで糖尿病には、ほとんど関わってきませんでしたが、いざその世界に入ると、奥深さにすっかり魅せられました。やがて、糖尿病の臨床と研究、その両方に魅了されるようになりました。

西村 

そんな私を見て、田嶼先生はピッツバーグ大学に留学し、公衆衛生学の修士号を取得するよう勧めてくださいました。先生が同大学に留学された当時は、糖尿病疫学の黎明期。日本とアメリカの研究環境には大きな差があり、留学によって多くを学ばれたそうです。
たとえば、1型糖尿病患者さんの長期予後を正確に追跡する研究が始まったのは、1980年代のことです。田嶼先生は1983年に留学し、日本の1型糖尿病患者さんの生命予後をアメリカやヨーロッパ各国と比較して、有力誌に論文を次々と発表されていました。
あるとき、田嶼先生から「アメリカに留学して公衆衛生の学位を取りなさい。そして、研究もしてきなさい」と言われ、私は喜び勇んで「はい、行きます」と答えました。ところが、いざ、渡米して大学院の授業が始まると、専門用語が分からない。プレゼンもしなければならない。試験では合格点を取らなければならない。まさに死に物狂いで勉強しました。
無事にMPH(Master of Public Health)を取得した後、わずかながら研究費も獲得でき、現地の1型糖尿病患者さんの追跡調査に取り組むことになりました。追跡調査を専門とする看護師さんに身振り手振りで協力をお願いし、4カ月で調査を完了。データを解析すると、近年に至るまで5年ごとに生命予後が着実に改善していることが分かり、その成果を論文にまとめました。その論文は、アメリカ糖尿病学会の有力な機関誌の表紙に掲載されました。そうしたなか、同僚から「アメリカはいい国だろう。なぜ日本に帰るのか?」と引き留められながらも、私は帰国を選びました。

臨床の現場で初めて知った糖尿病患者さんの痛み

高山

―その経験が、現在の研究につながっていくのでしょうか。

 

西村 

 留学から帰国した私は、すぐに本院へは戻らず、富士市立中央病院へ赴任しました。そこで、人生を変える二人目の師と出会います。臨床の天才と呼ぶべき山田治男先生(故人)です。
アメリカで3年間、臨床から完全に離れていたところへ、富士ではいきなり1人で当直して挿管まで行う日々が始まりました。最初は寝言で患者さんに話しかけてしまい、妻を心配させるほど戸惑いました。それでも半年ほど山田先生の指導を受けるうちに、患者さんのリスクの高低を直感的に見極められるようになり、臨床が俄然面白くなってきたんです。
なかには、神経障害が著しく進行した20歳の1型糖尿病患者さんもいました。8歳頃に発症してから20歳になるまで、インスリンが適切に投与されず、高血糖の状態が続いていたようです。その結果、重い神経障害を抱え、当院を受診されました。座っているときは高血圧なのに、立ち上がると重度の自律神経障害によって極端な起立性低血圧を起こし、何度も倒れてしまう。親御さんや山田先生と相談し、身体障害者手帳を申請するほど深刻な状態でした。こうした患者さんと向き合うなかで、私は1型糖尿病患者さんが抱える痛みを知りました。
そんなとき、山田先生の助言で始めたのがインスリンポンプ療法です。2000年当時、インスリンポンプを得意とする医療機関はまだごくわずかでした。私たちも1型糖尿病患者さんの治療に有効活用しようと試みましたが、思うような結果が得られません。今振り返れば、刻々と変化する血糖値の全容を捉えられていなかったため、インスリンポンプを用いても適切なインスリン投与パターンを設定できなかったのです。
その後、2002年に富士から本院へ戻りました。ほどなくしてアメリカの糖尿病学会に参加した際、学会の展示ブースで運命的な出会いがありました。それがCGM(Continuous Glucose Monitoring:持続血糖モニター)です。自身も1型糖尿病である女性が、皮下に細いセンサーを装着し、機器を通じて血糖値を連続測定している。その姿を見た瞬間、「これだ」と思いました。
ところが、詳しく話を聞くと、CGMは日本に輸入されておらず、販売予定もないとのことでした。そこで田嶼先生にCGMの必要性を理解していただき、資金面でも大きな支援を受けながらメーカーと交渉を重ね、2006年、CGMの並行輸入にこぎ着けました。さらに慈恵の倫理委員会の承認を得て、患者さん一人ひとりから同意をいただいた上で、臨床での使用を開始しました。

信じた道を貫いた先に大きな成果が生まれた

高山

―CGMの導入によって、糖尿病治療はどのように変わりましたか。

 

西村 

1型糖尿病患者さんの血糖変動の全容が見えるようになり、それまで経験や勘に頼っていたインスリン効果の実像を捉えられるようになりました。その結果、患者さん一人ひとりに合った治療法を選択できるようになったのです。まさに「目からウロコ」でした。患者さんからも、「体が楽になった」「不安がなくなり、よく眠れるようになった」という声をいただくようになりました。
当時、CGMを用いた臨床研究は世界でもまだほとんど行われていませんでした。そこで私たちは、CGMを活用した数多くの臨床研究を進めました。研究成果がメディアに取り上げられるようになり、論文として発表するとともに、機会あるごとに学会でもCGMの有用性を紹介してきました。こうした積み重ねによって、全国の先進的な医療機関へCGMが広がり、使用開始から4年後の2010年には国内で承認、翌2011年には保険適用となりました。
今や、CGMは大手通販サイトでも購入できるようになり、CGMとインスリンポンプが連動する機器も登場しています。1型糖尿病患者さんが血糖値の変化に常に神経を張り詰めることなく、日常生活を送れる時代が現実のものとなりつつあります。そうしたなか、私たちはあるメーカーと連携し、スーパーコンピューターで患者さんのデータを解析して、インスリン投与量を精密に提案できるアプリの開発にも取り組んでいます。
今後は、遠隔診療も重要になります。遠方に暮らす患者さんのCGMデータを確認し、慈恵に蓄積された知見に基づいて助言できるようになれば、患者さんと専門医との地理的な隔たりを埋めることができます。こうした取り組みを通じて、一人でも多くの1型糖尿病患者さんが低血糖を起こすことなく、いつも笑顔で暮らせるようにする。それが私の夢なんです。
大学には定年がありますが、医師には定年がありません。私自身、これからも好きなことに取り組み続けます。人生には山も谷もありますが、好きなことを続けていれば、その思いに共感し、力を貸してくれる人が現れます。皆さんにもぜひ、好きなことを突き詰め、失敗を恐れず、前向きに歩んでほしいと思います。

人にしかできない医療こそAI時代の医師に求められる

AIの普及を、医師はどのように捉えるべきでしょうか

これから専門領域を選ぶ医師は、5年後、10年後を見据え、AIでは代替できない領域を選択することを意識する必要があります

高山

―AIの普及を、医師はどのように捉えるべきでしょうか。

 

西村 

AIの力は本当にすごいと思います。CGMのデータも、AIが分析して助言するようになるでしょう。これから専門領域を選ぶ医師は、5年後、10年後を見据え、AIでは代替できない領域を選択することを意識する必要があります。臨床においても、単に診断するだけではなく、人にしか生み出せない価値を磨ける分野に、今から取り組んでいくべきだと思います。
AIはこれからも進化し、医師の仕事の一部を担うようになるでしょう。診断だけでなく、手術も例外ではありません。だからこそ医師には、より広い視野で患者さんの全体像を捉え、AIが示した答えを吟味したうえで、その先の治療や生き方まで助言できる力が求められます。そうでなければ、医師としての存在意義は次第に薄れてしまうかもしれません。AIは頼もしい仲間であると同時に、手強いライバルでもあります。その緊張感を持ち、今から備えておくことが大切です。
一方で、医療では、医学的に正しい答えを示すだけでは、患者さんの心が動かないこともあります。糖尿病患者さんのなかには、「インスリンを打ちたくない」「インスリンを打ったら負けだ」という強い思いを持つ方もいます。そうした患者さんにAIが適切な助言をしたとしても、それだけで「インスリンを打ってみよう」と思っていただけるとは限りません。
そこで必要になるのが、患者さん一人ひとりの心に響く言葉や例えを用いながら、治療に向けて気持ちが動くように働きかけることです。私は、インスリンをよく「転ばぬ先の杖」に例えています。杖を持つことは、決して負けではありません。むしろ、将来の大けがを防ぐための備えです。杖を持たずに無理を続けていると、ある日転倒し、それをきっかけに寝たきりになってしまうかもしれません。「そうして後悔する患者さんを、私は何人も見てきました。その方々の顔が、今も目に浮かびます」と、力になりきれなかった悔しさをにじませながらお話しすることもあります。
この例えがすべての患者さんに適しているとは限りません。しかし、相手に応じて言葉を選び、ときには例え話を交えながら心に働きかける。そうした柔軟さ、いわばアナログな感覚を持つ医師は、AI時代においても必要とされ続けるでしょう。


高山

―最後に、研究者を目指す方へのメッセージをお願いします。

 

西村 

私が大切にしている言葉は、「好きこそものの上手なれ」です。
幼い頃から私は、電気モーターでも、蝶や花でも、「どのような仕組みになっているのだろう」「なぜ、このように動くのだろう」と、その構造をじっくり観察することが大好きでした。CGMによって血糖変動を可視化することにも、同じ魅力を感じています。まず、見えないものを見えるようにする。そして、そこから一人ひとりに合った、よりよい治療を考える。その思いを持ち続けてきた延長線上に、現在の私があります。
医師となって、早くも35年。私は変わらぬ思いで、1型糖尿病の患者さんと向き合ってきました。持ち前の探究心も相まって、糖尿病学の奥深さに引き込まれ、機械好きが高じて、CGMやインスリンポンプに取り組んでまいりました。
その原動力は、もちろん患者さんの笑顔です。一方で、患者さんや医療スタッフからは、よく「先生は、本当に機械がお好きなんですね。さらに良い機器を使えるようにしてください」と声をかけていただきます。その言葉は、私にとって大きな励みであり、次の一歩を踏み出す力にもなっています。
若い皆さんにお伝えしたいのは、まさに「好きこそものの上手なれ」ということです。自分が心から好きだと思えること、そしてAIの時代にあっても、自ら問い、学び続け、生涯をかけて取り組みたいと思えることを、ぜひご自身の専門にしてください。「好き」という気持ちは、長い道のりを歩み続けるための、最も強く、確かな原動力になるはずです。

対談者プロフィール

内科学講座(糖尿病・代謝・内分泌内科) 講座担当教授
西村 理明(にしむら りめい)

1991年東京慈恵会医科大学卒業。1997年同大学臨床系大学院(内科)修了。1998年医学博士取得。1998年Graduate School of Public Health, University of Pittsburgh修了(MPH取得)。2000年-2002年富士市立中央病院内科医長。2000年-2016年Adjunct Assistant Professor, Graduate School of Public Health, University of Pittsburgh。2002年-2006年 東京慈恵会医科大学・糖尿病・代謝・内分泌内科助手などを経て2019年より現職。

医学科6年
髙山 愛加(たかやま あいか)

浦和明の星女子高等学校卒業。

ダンス部、学生ワーキンググループに所属。学外ではダンスサークルで活動するほか、市中病院の小児科ボランティアにも参加している。多くの人との出会いや経験を通して、医療に求められるコミュニケーションや寄り添う姿勢について考えてきた。臨床実習ではさまざまな医師との関わりの中で刺激を受けながら、憧れの医師像と自分らしさを重ね合わせ、自身の将来像を模索している。

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