第24回 真珠腫の解明から再生医療の社会実装へ 「受け身」のキャリアから切り拓く、患者さんに届く医療


今回ご登場いただくのは、耳鼻咽喉科学講座教授で、附属病院(本院)の病院長も務める小島博己先生です。中学3年生のときに受けた鼻の手術で慈恵と出会い、手塚治虫さんの『ブラック・ジャック』に憧れて外科系の医師を目指しましたが、「耳をやれ」と告げられたことから新しい道が開きます。そこから始まった歩みは、やがて中耳真珠腫の研究や、再生医療を患者さんに届ける仕事へとつながっていきました。思いもかけない分野へ進んだ先生が、なぜ現在に至ったのか。これまでの歩みと、若い世代へのまなざしを伺いました。
『ブラック・ジャック』への憧れと、中学の頃に患者として通った慈恵
中山
―まず初めに、なぜ、医師を志したのでしょうか。
小島
私の小さい頃は手塚治虫さんの『ブラック・ジャック』が流行っていた時期でした。うちは医者の家系ではなく、親戚にも医師は一人もいませんでした。それでもあの漫画に夢中になって、幼心に外科系の医師になりたいと憧れたのです。全巻を何度も読み返しました。今振り返っても、きっかけはあれ以外に思い当たりません。
会社勤めだった父から手に職をつけるように勧められたということもありましたが、一番大きかったのはやはり漫画への純粋な憧れでしたね。
中山
―慈恵との出会いについてお伺いできますか。
小島
実は、中学3年生のときに蓄膿症で鼻の手術を受けたのです。当時は内視鏡ではなく、唇の裏を切るような大がかりな手術で、しかも局所麻酔でした。本当に痛かったですね。
医者の家系ではなかったので、どこで手術を受ければ良いのかも分かりませんでした。いろいろ探すなかで慈恵に高名な先生がおられると知り、当時の慈恵第三病院で手術を受けることになりました。中学3年生の私は「慈恵医大」という名前もあまり知りませんでした。今では、どの病院にどんな医師がいるかはすぐ調べられますが、当時は一般の家庭では、まったく情報がありませんでした。
その後、慈恵の医局からこられていた耳鼻科の先生に、駅前の診療所でずっと診ていただきました。受験の相談にも乗ってくださり、考えた末に慈恵医大を受験しました。
学生時代、そして「受け身」で始まった耳の道
中山
―入学されてからは、どのような学生でしたか。
小島
1年生は国領キャンパスで教養課程でしたから、本当にのんびりしていました。自動車部でラリーをやっていたので、夜な夜な走りにも行っていましたね。ただ、3年生からは一変しました。4年間で覚えることが一気に増えて、受験勉強の何倍も勉強しないと進級できない。当時は「一生分勉強したな」と思ったくらいです。
印象に残っているのは、第一細菌学の大野教授の授業です。ハーバード大学から帰ってこられたばかりで、いきなり黒板にウイルスの形を描いて、「君たちが卒業する頃には、がんは治すことができる病気になっているだろう」と夢を語られていました。学生ながらに「そんな世界があるのか、すごいな」と圧倒されたのを覚えています。
きつかったのは解剖ですね。特にお正月明けにあった「ボーンクイズ」は苛烈でした。お正月休み返上で勉強し、出された骨一本から溝や神経の通り道まで完璧に答えなければならない。あれは本当に大変でしたね。当時はご遺体に手袋をはめて触れてはいけませんでした。すべて素手で触れる。敬意を示すのだ、と教わった時代でした。
中山
―多くの診療科の中で耳鼻咽喉科の道に進まれた理由をお伺いできますか。
小島
正直に申し上げると、選んだというよりそこ以外の選択肢がなかったのです。
中学3年で受けた手術は、当時「再発するもの」と言われていました。案の定、大学2年生の終わり頃に再発しました。3年生になるとき、本院に良い先生がいるからと紹介していただいた先が、私の前任の教授の森山先生でした。留学から帰ってこられたばかりで、お忙しいところを、昼休みのわずかな合間などにも診察していただきました。
当時は研修制度もなく、卒業してすぐ入局する時代です。6年生になると「君は当然入るんだろう。同級生も何人か誘ってきてくれ……」と、入局が前提という雰囲気でした。もともと私はブラック・ジャックに憧れていて、心臓外科や脳神経外科に行きたかったので、耳鼻科はまったく考えていませんでした。とはいえ、そうした経緯もあったのと、何より自分の鼻が悪く、何度も手術をしていただいたので、他の科に行ったらもう診てもらえないのではないか、と考えて耳鼻科に入局することにしました。
中山
―どうして、耳鼻科の中でも「耳科領域」を選ばれのでしょうか。
小島
耳鼻科に入ってからも、憧れは頭頸部でした。首のがんで、大きく開けるような手術をしたかったのです。
しかし、私は入局後、外部の病院にばかり勤務していました。本院にいる人は教授との距離も近いので専門がどんどん決まっていきますが、私はなかなか決まらなかったのです。専門医試験を受ける6年目頃に本院へ戻り、教授に就任されたばかりの森山先生に面談していただきました。「何をやりたいんだ」と希望を聞かれ、「頭頸部です」とお答えしたのですが、「希望者がもういっぱいだからダメだ。耳をやりなさい」と即座に言われてしまったのです。当時の立場では、とても「嫌です」とは言えませんでしたね。
言われたからにはやらなければいけないので研究を始めました。テーマは真珠腫という中耳の疾患で、分子生物学的な手法を取り入れようと考えました。ただ、当時は慈恵の教室で分子生物学を扱っているところはほとんどなかったのです。探していくと、あの第一細菌学の大野教授の教室が取り組んでいることが分かり、そこへ通わせていただきました。自分でcDNAのプローブを作るところから始め、たくさんの方々の協力もあり、論文を書き上げることができました。
異国の地で得た「どこでも生きていける」という自信
中山
―留学を決意された理由を伺えますか。
小島
論文が形になったところで、「そろそろ留学に行きなさい」と言われ、“やった”と思いました。行き先を尋ねられて、「がんをやりたい」とお答えしました。1990年代の初めは、がんとエイズに関して分子レベルでウイルスの研究ができるところは限られていたので、大野先生にご紹介いただき、ハーバード大学のダナファーバー癌研究所に留学しました。取り組んだのは、真珠腫とはまったく関係のない、がんのシグナル伝達の研究で、扱った細胞も乳がんや白血病の細胞でした。帰国後に耳の研究へ生かすつもりで取り組んでいました。
留学をして、英語には苦労しました。現地に着いてすぐ、その建物で働く全員が受ける共通のレクチャーがあったのですが、周りは当然ネイティブばかりです。火災報知器の模擬ボタンを押して「ファイヤー」と叫んで走って戻る実技までありました。順番に英語で質問されるのには緊張しました。休憩を挟むとみんな散ってしまい、次にどこへ行けばいいのか分からず、ひどく焦ったことを覚えています。それでも2年過ごして帰国を決めたとき、ボスから「給料を倍にするから、もう少し残ってくれ」と引き留めていただき、少しは成長できたのかなと、素直に嬉しかったですね。
中山
―留学をとおして、影響や刺激を受けた経験についてお伺いできますか。
小島
私も2年で帰国しましたが、日本人はほとんど2年から3年で帰国していました。アメリカでの生活は快適で、科学も少し進んでいましたが、日本の方が食事もおいしく、街はきれいで安全です。ある程度学ぶべきことは学んだ、という感覚でしたね。
一方、私の研究室にはインドや中国から来た研究者が多く、彼らにとってボストンでの暮らしは、母国よりはるかに恵まれていました。何としてもグリーンカードを取得してアメリカに残りたいという思いは、日本人とはまるで違いましたね。当時の「このままでは日本は置いていかれ、こうした国々が伸びていくのではないか」という不安は、残念ながら見事に的中してしまいました。日本の医療は優れていると安穏としていると、アジア諸国の凄まじい進化にあっという間に追いつかれて追い抜かれてしまうでしょう。
それと留学で感じたことは、英語も思うようにできない状態で渡米し、それでも現地で給料をもらって、自分の力で生活できたことが、一番の自信になりました。どこでも生きていけるのかもしれない、と思えましたね。
真珠腫の研究から、社会実装へ
中山
―僕も宿題報告の本なども拝読しましたが、真珠腫の研究についてお聞かせいただけますか。
小島
ありがとうございます。真珠腫は腫瘍ではありませんが、中耳の骨を溶かしていく疾患です。古くから知られているにもかかわらず、発症の機序はいまだに解明されていません。手術の方法はいくつもありますが、確立されたものはありません。原因が分かっていないからです。
研究を進めるなかで、鼓膜の裏や乳突蜂巣の粘膜の機能が損なわれると鼓膜が陥凹し、真珠腫ができやすくなることが分かってきました。それならば、手術のあとにその粘膜をうまく再生させればよいのではないか。そう考え、鼻の粘膜を採取して人工的に細胞シートを作り移植するという研究に取り組み、臨床研究から治験まで進めてきました。今では、その技術の社会実装をめざしています。
中山
―起業を考えられたのですね。
小島
そうですね。そうしたビジネスや開発が得意な後輩がいて、彼が中心となって立ち上げてくれました。現在、彼は社長業に専念しています。ベンチャーは100社に1社しか生き残らないと言われる厳しい世界で、慈恵でも5社くらいあるように思います。私たちの会社もその内のひとつで、なんとか頑張っています。
中山
―真珠腫の研究がどのようにして再生医療に繋がったのか伺えますか。
小島
留学から戻ったころ、森山教授が「宿題報告」を担当されることになり、耳のチーフを任されていた私が、基礎研究で新たな3本の柱を立てるよう言われたのが始まりです。1つ目は、アポトーシスの仕組みを使って真珠腫を消す方法を探ること。2つ目は、今でいうARや仮想空間の技術で、手術のときに見えない裏側を映し出す研究です。そして「3本目の柱をどうしようか」と悩んでいた時に出会ったのが、立花隆さんの『人体再生』という本でした。1日で読み終えてしまうほど引き込まれ、「再生医学は絶対に面白くなる」と直感しました。当時はまだiPS細胞もない時代でした。そこから、先ほどお話しした細胞シートの研究へとつながっていきます。
この大きな研究を進めるうえで何より重視したのは、チームを作ることです。自分が教授になってすぐ「再生医療ならこういうのを作って……」と構想を描き、各自に責任と役割を持ってもらいました。慈恵には優秀な人材が多いので、任せればうまくいくのです。私の役割は全体を見て、弱いところを補ったり尖りすぎた部分を抑えたりすることです。一人でやろうとしても長続きしません。
研究は基礎研究で終わり、論文を書いて満足してしまいがちですが、それではいけません。特許を取得して企業と組み、患者さんのもとに届ける大学主導の仕組みを作ることが大切です。単に儲かることが目的ではなく、研究の主導権をきちんと保持することも大切です。薬や医療機器、術式を開発して世に出す試みは、理工系では当たり前でも医学部ではなかなか根付いてきませんでした。大学が主体となって研究成果を社会に還元していくことは、大学病院が果たすべき大きな使命だと考えています。
「できる」ことと「きれいに治る」ことは違う
中山
―実習で伺った際、先生ご自身が現役で執刀されているのがとても印象的でした。手術で心がけていることはありますか。
小島
どのような手術でも、一番大切なのはレイヤー、つまり組織の層です。層と層の間をうまく分けていけば、出血も少なく、きれいに剥がれます。そして、余計な操作をしないことも大切です。むやみに触ったり吸引したりせず、愛護的に扱うことを心がけています。
森山教授に手術を教わっていた頃、先生が左を、私が右を執刀したことがあります。術前の所見はほとんど同じでも、治り方が違いました。「できる」ことと「きれいに治る」ことは違います。例えば達人が1時間でできる手術を、ある程度の経験者だとなんとか3時間かければできるとします。ただ、仕上がりが一見同じでも、その後の治りが違うのですね。丁寧で迷いのない手術は、時間も短く、ダメージも少ないので、術後の治りもきれいです。耳でも鼻でも頭頸部でも同じです。その点には気をつけるように指導しています。
それと、患者さんはよく見ていると思いますよ。外来で鼻に吸引管を入れられるだけでも、この先生は上手だ、この先生はいい加減だ、と分かるものです。
中山
―そういうお考えはみんなにも伝わるのでしょうね。
小島
そうですね。うちの教室は確かに人数も多く、手術数も多いです。しかし、それを口に出しておごるような人がいたら私は叱ります。日本国内だけでも、優れた教室はたくさんあります。一流でなければならないとは思いますが、上には上がいるということを、常に意識していなければいけません。おごりが出た時点で、もう終わりだと思うのです。謙虚さがなければダメですね。
その年その年で、また「1年生」に戻る
中山
―病院長というお立場については、いかがでしょうか。
小島
今の私の仕事は、8割くらいが病院長としてのものです。医局にはたくさん頼りになる後輩がいますので、大きな方針さえ決めておけば問題はありません。しかし、病院は違います。今では、全国の病院が本当に大変な状況です。少し気を抜けば、経営にしても医療安全にしても、何が起こるか分かりません。24時間365日、病院の携帯電話は常に持ち歩いています。夜中でも呼び出しや相談があります。海外にも極力行かず、何かあればすぐに駆けつけられる体制にしています。
ただ、病院長になってよかったのは、いろいろな部署の方と知り合えたことです。病院長になると、事務の方をはじめ多職種の方などとも、本当にさまざまな場面でお会いします。そのおかげで慈恵という組織の全体を少し知ることができました。同じ仕事を漫然とするのではなく、その年その年で立場がかわり、やるべきことが変わるのは、面白いものです。そのたびに、また1年生になるわけですから。
中山
―やりがいや面白さなどは、どのように感じられていますか。
小島
学生のうちは、学生として過ごせばいい。医師になればまったく違う世界で、また1年生から始まります。同じ仕事を続けていると、伸びしろが小さくなってしまいます。手術も、学んでいる最中はとても面白いのですが、できるようになるにつれて慣れてしまい、ある程度の域に達すると新しく感じることも薄れてきます。そこで職種や役割が大きく変わると新鮮です。教授になって初めて教授会に出たときも、理事になって初めて理事会に出たときも、そのたびに刺激があって自分はとても恵まれていると感じました。
中山
―役職というのは、どのようにすれば巡ってくるものでしょうか。
小島
役職は一生懸命仕事をしていれば、誰かが推薦してくれるものではないでしょうか。
私自身、研究は好きでしたし、手術もうまくなりたいと思っていました。ただ、教授になりたくて大学に残ったわけではありません。留学中、他の大学に留学していた耳鼻科の先輩から「こじちゃん、教授になりたいの?」と聞かれたことがあります。「いいえ、とくに考えていません」と答えたところ「そうだよね。それを目標にしたら寂しいよね」と言われ、そのとおりだと感じたのを覚えています。目標を持つことは大切です。ただ、地位が目標になってしまうと、それが叶わなかったときに何もなくなってしまいます。やはり、それは少し違うのかなと思います。
中山
―人と関わるうえで、気をつけていらっしゃることをお伺いできますか。
小島
気をつけようと意識はしていても、素は出てしまうものです。やはりさらけ出していくしかありません。結局、みんな見抜きますから。ただ、最近感じているのは、複数の人の意見を聞くということです。親しくなると、つい同じ人の意見ばかりを聞きがちです。それは心地よく、なんとなく正しいように思えてきます。しかし、まったく違う立場の人の意見を聞くと、見える世界がまるで違います。いろいろな意見を聞いたうえで、最後は自分が判断します。それが何より大切だと考えています。
AIの時代に、頭を使うということ
中山
―初期研修先を決めるマッチングの面接でも、必ず聞かれるテーマですが、AIについては、どうお考えですか。
小島
この2年ほどで、急速に進みすぎた感がありますね。診断の領域ではこれからどんどん広がるでしょうし、病院としても、診断書や紹介状の返事といった業務には活用していくつもりです。ただ、私くらいの年齢になってAIで仕事を楽にするのはいいのですが、若いうちからAIに頼ってしまうと、頭を使わなくなってしまうのではと心配しています。
好きなものが次々に流れてくるまま、携帯電話で短い動画ばかりを受け身で見ていると、本を読む気力もなくなるでしょう。ただでさえ、字を書かなくなっています。受け身でばかりいると、ものを生み出す力や、想像する力にも影響してきます。AIが進むのは避けられませんし、悪いことでもありません。ただ、越えてはいけない一線を越えてしまった面もあるのではないか、という気もしています。若い人たちにとって、これから大きな問題になるのではないでしょうか。
中山
―最後に、医師をめざす方や、いま慈恵で学んでいる学生へアドバイスをお願いいたします。
小島
私は、中学生の頃には考えもしなかった耳鼻科に進み、自分が望んでいたがんの分野ではなく、耳を専門にすることになりました。当初の自分からすれば、考えられないところに行き着きました。しかし、医学ならどの分野であっても、きっと楽しいと思っています。耳鼻科は小さな分野だと思われるかもしれませんし、耳はさらに小さい分野です。ただ、その分野でも学ぶことはいくらでもあります。興味も湧いてきます。仮に自分の意図と違うところに進んだとしても、そこで必ず楽しみを見出すことができて、後悔もしないと思います。
ただし、入る教室の雰囲気が自分に合うかどうかは、よく見ておいたほうがいいかもしれません。その家族に入って一生付き合うわけですから結婚するようなもので、そこの文化は大切です。逆に、雰囲気さえ合えば、専門分野が何であっても楽しいはずです。
それと、進む道を決めつけすぎないでほしいと思います。人は、いろいろなところで夢に挫折するものです。そのときに別の道もあると思えるほうが、体も心も楽ではないでしょうか。私は大学に残って教授になり、病院長にもなりましたが、早くに大学を離れて開業していたら、それはそれで面白かったかもしれません。たとえですが、仮にもし今から開業したとしても、また「開業1年生」で面白いかもしれません。医師という職業がベースにあれば、いろいろなことができます。ですから、医師免許だけはしっかり取ってくださいね。せっかく医学部に入ったのですから、諦めてしまうのはもったいないですよ。ところで、中山くんはどんな分野に進みたいと考えていますか?
中山
―私は今は手術ができる診療科に進みたいと考えています。耳鼻科の中では、頭頸部に興味があります。
小島
頭頸部、いいじゃないですか。命に直接関わる分野ですね。私がやりたかった分野です。今の教室員には、やりたいことをやらせています。自分ができなかったことですからね。ぜひ頑張ってください。待っていますよ。

対談者プロフィール
小島 博己(こじま ひろみ)
1987年東京慈恵会医科大学卒業。1995年学位(医学博士)受領。同年、米国ハーバード大学ダナファーバー癌研究所に留学。1999年東京慈恵会医科大学耳鼻咽喉科学講座講師、2006年同助教授(准教授)を経て、2013年より同講座教授。2022年より附属病院長。主な研究分野は、中耳疾患(特に真珠腫、癒着性中耳炎)の病態解明、中耳粘膜の再生医学、アポトーシスの細胞内シグナル伝達。臨床では耳科手術を中心に行い、真珠腫に対しては内視鏡を併用して外耳道後壁を保存する鼓室形成術を施行し、良好な成績を得ている。また、高度感音難聴で中耳疾患を合併した症例への人工内耳手術にも積極的に取り組んでいる。錐体部真珠腫などの頭蓋底病変については、脳神経外科の協力のもと、安全な頭蓋底手術を心がけている。
中山 大河(なかやま たいが)
浅野中学校・高等学校卒業。
横浜生まれ・横浜育ち。学部2年次より本学宇宙航空医学研究室に所属し、基礎研究に取り組んできた。臨床実習を通じて外科系診療科の魅力を実感し、現在は手術を中心とする診療科を志望。耳鼻咽喉科では頭蓋底手術に関する研究プロジェクトにも携わっている。趣味はランニングで、現在の目標はフルマラソン完走。
